前回は時枝誠記の「言語過程説」とソシュール学説との主な相違点を紹介した。彼の「言語過程説」は部分的にはソシュール学説の問題点を解決することに成功しているものの、残念ながらあらゆる点でソシュール学説より優れているというわけではない。実は時枝の「言語過程説」も少なからぬ問題点を抱えている。
ここからは彼の理論の主要な問題点を挙げてみたい。
「言語」と「言語活動」との同一視
前回見たように、時枝は言語の本質を主体の表現活動そのものとし、「言語」イコール「言語活動」であると主張した。この主張に立って彼は表現過程だけでなく言語の鑑賞者の理解過程もまた「言語」の中へ含めるところまで進んだ。
(一)言語は、思想の表現であり、また、理解である。思想の表現過程及び理解過程そのものが、言語である。
(二)言語が、思想の表現、理解であると云っても、すべての思想の表現理解が、言語であるのではない。絵画や音楽も、思想の表現理解である。言語は、音声(発音行為)或は文字(記載行為)を媒介とする表現過程である。同時に、音声(聴取行為)或は文字(読字行為)を媒介とする理解過程である。[1]時枝誠記『国語学原論 続編』(岩波文庫、2008年)P.18
ところで、彼の考えを敷衍するならば、絵画を鑑賞する行為も「絵画」であり、音楽を鑑賞する行為も「音楽」ということになろう。すると、ある絵画を鑑賞したときに感じた感想を言語で表現するという場合、絵画を鑑賞する過程は「絵画」であって、それを言語で表現する過程は「言語」ということになってしまう。反対に、事件の目撃者から話を聞きながら犯人の人相書を描くような場合は、理解過程が「言語」、表現過程が「絵画」ということになるだろう。
時枝の説を絵画表現に適用するならば、現実の人間を目の前に見ながら肖像画を描くとき、絵画の素材たる人を見る過程は絵画の表現過程に含まれるはずである。一方で人の話から絵を描き起こす場合は理解過程が「言語」となってしまうのだから、これは矛盾ではないだろうか?ここに、表現過程と理解過程をともに「言語」とする説が本当に妥当であるか疑問が出てくることになる。
言語学者の三浦つとむは「言語」と「言語活動」を同一視する時枝の考えかたを次のように批判している。
言語活動と言語とを同一視する時枝にあっては、理解過程それ自体も言語だということにならないわけにはいかなかった。言語とは表現をさすことばで、理解過程を言語とよぶのはあやまりである。日常の会話で
この花を折ったのはおまえだろう。 (A)
ぼくじゃないよ。 (B)
というようなとき、AB間には精神的な交通が成立している。BはAの表現を追体験してから答えている。「ぼくじゃ」は「おまえだ」を受けとめてくりかえすかたちをとっているのであって、「だ」というAの判断をBは「じゃ」と追判断し受けとめた上で「ない」と否定している。Aの理解過程(Aの表現を理解する過程、引用者注)は同時にBの表現過程でもあるが、だからといって理解過程を言語とよんでいいということにはならない。時枝的にとらえれば、絵画も表現過程と理解過程との両者をさすものになるが、絵画の鑑賞後にその感想や批評を文字言語で書くような場合、絵画の理解過程は同時に文字言語の表現過程であるから、理解過程であるという点では絵画といえるし表現過程であるという点では言語ともいえるわけで、混乱してしまう。[2]三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房、1977年)所収『時枝誠記の言語過程説』P.195、強調は原文ママ
非常に明快な指摘である。私たちの日常の言語活動では、相手の表現をいったん受け止めてそれを繰り返すというかたちで表現するということがしばしばある。
三浦が出した例のように、「おまえだろう」という表現に対して否定するときは、「ぼくじゃ」と一度相手の判断を追判断した後に「ない」という否定表現を追加するのである。反対に、Bが相手の判断に対して肯定するのであれば、「ぼくだ」と相手の判断「だ」を追判断して単純に「だ」を繰り返すことになる。少々回りくどく言うと、この「ぼくじゃない」や「ぼくだ」という表現の過程にはAの表現を理解する過程が含まれているのであり、その過程が「ぼくじゃ」や「ぼくだ」というかたちで表現されているのである。
絵画を鑑賞した後にその感想を言語で表現する場合も、基本的にはこれと同じことである。言語の表現過程の内に絵画の理解過程が含まれるのだから、後者の過程は同時に前者の過程でもあるといわなければならない。ところが、時枝の説では絵画の理解過程も「絵画」に含めるので、絵画の理解過程が「言語」であるとともに「絵画」でもあるという矛盾に陥ってしまう。先ほど三浦が指摘したのはまさにこの点である。
詳しくは第7回以降述べるが、時枝が主体の表現活動および理解活動そのものを「言語」としたのに対し、三浦は表現の過程的構造が反映された物質的な文字や音声こそが「言語」であるという立場をとった。
彫刻とは何かといえば、誰でも作品それ自体だと答えるであろう。作品以前に、作者の頭の中に彫刻とよばれるものが存在するなどと主張する者はない。彫刻の素材は何かといえば、誰でも木とか粘土とか大理石とか答えるであろう。作者の頭の中に彫刻の素材が存在するなどと主張する者はない。言語にしても同様であって、過程的構造をかくし持った音声や文字が言語であり、それ以外に言語は存在しない。[3]『言語学と記号学』所収『時枝誠記の言語過程説』P.202
「受容的整序の能力」
第2回で見たように、ソシュールの説では「パロール」を理解するには社会的な記号の体系である「ラング」が必要とされる。特定の「聴覚映像」に対して特定の「概念」が結びついた「ラング」が社会の成員の間に共有されているために、言葉の受け手は音声・文字から「聴覚映像」を経由して特定の「概念」を思い浮かべることができるという考えである。
時枝はこの「ラング」の存在を否定したが、すると、言葉の受け手はどのようにして特定の「概念」を音声・文字から読み取るかということがここで問題になる。
彼は、同じ記号から特定の概念が喚起されるのは、言語を用いる人々の間に「同一概念を喚起し得る習慣性」が成立しているためだと主張した。
乙が甲と同様な記号を再生し得るのは、言語活動の循行中に座を占めると考えられる「言語」の力でもなく、又、意味を持った音声の力でもなく、実に、受容された音声が、甲と同様な概念を喚起し得る聯合の習慣を、乙が持っているからである。かくして万人に殆ど同一と思われる記号の成立するのは、「言語」それ自身が媒体としての職能を有するからではなく、生理的物理的過程を媒体として同一概念を喚起し得る習慣性が万人の間に成立しているからである。かかる習慣性の成立には、勿論条件としては個人間の社会的交渉ということが必要であるが、本質的には、個人の銘々に、受容的整序の能力が存在することが必要である。[4]時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫、2007年)P.97,98
時枝は、言葉の受け手が音声・文字から送り手と同じ概念を思い浮かべるという事実を認めるし、また、これが社会的な習慣として成立していることも認めている。ソシュール説を支持する人々が、「ラング」という記号の体系が社会的に共有された認識として人々の頭の中にあると考えたのも、ここに根拠があると考えられるのである。
しかし、時枝はこのような社会的習慣の成立するのは「受容的整序の能力」という個人的な能力が人々にあるためだとし、「ラング」とはこの能力を「外在的なもの」に置き換えたものにほかならないと主張した。
「言語」が社会的事実であるということは、個より帰納せられた普遍概念を実在の如く考える所から来る誤であり、「言語」が個人間を結ぶ媒体であると考えることは、個人の普遍的整序能力を外在的なものに置き換えたことである。[5]前掲書P.99
しかし、ここで次のような疑問が残る。時枝は表現以前に「言語」が人びとの頭の中に与えられているという説に反対するが、そのように考える人がソシュールを始め少なくないのはどうしてだろうか?
彼が主張するように、表現以前に「言語」があるとするラング説では現実の言語活動の諸現象を正しく説明できないのはたしかである。一方で、「言語」そのものが頭の中にあるという解釈が出てくるのは(たとえその解釈が間違いだとしても)何らかの根拠があるからではないだろうか?ところが、時枝の説ではこの根拠について十分な説明をしてくれないのである。
ソシュールは「ラング」のありかたを「1冊の辞書があって、その辞書の同じ冊子が個々人に配分されている」と喩えており、「ラング」を個人の頭の中にある辞書のようなものと考えていた。そこで、辞書というものの性格についてあらためて考えてみよう。
小学校に上る前の子どもたちは辞書を使ったことがなく、辞書がなくとも言語表現するのに不自由を感じることはおそらくないだろう。辞書自体は言語表現に不可欠なものではないが、外国語を習う人にとっては非常に重要なものである。
これは言語以外の表現にはないもので、言語の本質と深い関係があると考えられるのだが、辞書を見てみると、そこにあるのは私たちが本を読むときに見る「単語」と「同じ」ものである。見た目にはこの「単語」と私たちが普段使う言語とを区別できないことから、「辞書の中に言語がある」という解釈が出てくることにもなる。このような見方は果して正しいだろうか?
時枝は「言語学の対象は、特定個人の特定言語行為以外にはあり得ない 1」という立場から、辞書に載っている語彙は具体的な言語の「見本」に過ぎずそれ自体が言語ではないとした。
辞書に登録された語彙は、具体的な語の抽象によって成立したものであって、宛も博物学の書に載せられた桜の花の挿画の様なものであって、具体的個物の見本に過ぎないのである。辞書は具体的言語に対する科学的操作の結果出来上がったものであって、それ自身具体的な言語ではないのである。(中略)例えば辞書に「あなづらはし」と標出されていても、それ自身は、語とはいい得ないのであって、単なる文字であり、厳密にいえば線の集合に過ぎないのである。しかしながら、この標識とそれに加えられている説明、釈義等によって、辞書の検索者は一の言語的体験を獲得することが出来るのである。この様に見て来るならば、辞書に言語が存在するということは、尚更いい得ないこととなるのである。[6]前掲書P.29,30
ここで、辞書とはどういう性格のものか考えるために、私たちが辞書を引くときに一体どんな「言語的体験」をするか振り返ってみよう。
音声言語で「しかいしゃ」といった、あるいは印刷物の中に「司会者」というかたちの文字があった、しかしそれはどんな意味か知らない、または意味を忘れてしまった、そこで辞書を見たらその意味を知ることができた、――こういう体験です。言語の中には、表意文字の「月」「川」「鳥」や音声の「ワンワン(犬)」「ガラガラ(玩具)」「チンドン屋」などのように、まだ対象の感性的なありかたと似たかたちを使っているものもないではありませんが、大多数は対象の感性的なありかたとは関係のないかたちを使います。言語の場合、どういう概念にどういうかたちを使うかは、社会的な約束として成立しているのです。[7]三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.61,62、強調は原文ママ
上の引用で三浦が指摘しているように、ある音声あるいは文字に対応する対象が何か知らなかったり忘れてしまったときに、私たちは辞書を引いてその「意味」を確認する。言語は、絵画や彫刻とは異なり、どの概念にどの音声あるいは文字を使うかが「社会的な約束」として決まっており、これが辞書に書かれているわけである。
単語は一概念を表現する点で共通していますから、社会的な約束を知るために必要なのは音声や文字の種類と対象のありかたで、これを辞書が示してくれるわけです。[8]前掲書P.62
辞書に書かれている「社会的な約束」には、簡単に理解できるものもあるが、「国家」や「社会」といった抽象的な概念になると部分的な理解にとどまっていたり、あるいは理解内容が個人によってばらつきがあったりする。こういった場合に辞書があると、表現上の「社会的な約束」がどうなっているか確認することができるわけである。
また、科学で使われる用語の中には日常生活で使われるものとは異なった意味を持っている語もあることから、それぞれの科学分野ごとに「医学用語辞典」や「社会科学用語辞典」などが作られることもある。
以上から、辞書は表現上の「社会的な約束」を示すことで言語表現を媒介するものとして役立っているといえるだろう。
辞書は、我々の用語について、理解すべき方向を規定するものであって、その本質は、表現と理解とを媒介するところにある。[9]『国語学原論 続編』P.59
辞書が言語表現や言語理解の「媒介」という役割を果たしていることは、時枝自身も認めている。それならば、辞書に載っている「社会的な約束」自体は言語でなくても、これは言語の本質と関わりのあるものとして当然言語研究の対象とならなければならない。つまり、この「社会的な約束」が「媒介」として言語表現の中でどのような役割を果すのかを解明することが言語研究の重要な論点となるのである。
ところが、時枝の主張する言語の過程的構造にはこの媒介過程が欠落しており、言語における「社会的な約束」が言語表現・言語理解の成立過程においてどのような「媒介」の役割を果すのかが十分示されていない。ソシュールおよび彼の学説の支持者はこの「約束」自体を「言語」つまり「ラング」と同一視したが、時枝はこれを「受容的整序の能力」という個人的な能力として解釈し、「ラング」の存在自体を否定してしまった。
三浦が以下に指摘するように、これでは「ラング」の正体を十分に明らかにしたとはいえず、ソシュール説の支持者を納得させることができなかった。
言語道具観(「言語」が話し手の思想とは別に存在し、これを思想伝達の道具として使うという考え。引用者注。)が、表現のための社会的な約束の認識を「言語」または「言語の材料」と考えたのはまちがいです。時枝氏は言語道具観を否定して、個々の具体的な言語以外に言語はないと主張しました。これは正しかったのです。けれども言語道具観のとりあげた「言語」または「言語の材料」の正体が何であるかを明らかにすることができず、これを否定したために、言語道具観の支持者を充分に説得することができませんでした。聞き手が、耳にした音声から話し手と同じような概念を思いうかべる事実を、時枝氏も認めます。これが社会的な習慣として成立していることも認めます。しかしその習慣が成立し保持されていることの基礎を、表現上の社会的な約束を認識している点に、すなわち「言語」または「言語の材料」と解釈されている抽象的な認識に求めるのではなく、「本質的には、個人の銘々に、受容的整序の能力が存在する」(『国語学原論』)からだと、個人的な能力に基礎づけたところに、まちがいがありました。ここに、言語過程説は個人主義的、心理主義的な学説だという非難が浴せられる一つの根拠があったのです。[10]『日本語はどういう言語か』P.113
第7回以降で詳しく述べるが、三浦は「表現のための社会的な約束の認識」そのものが「言語」ではないという点では時枝と一致するものの、これが言語表現において話し手・書き手の概念を媒介するのに使われ、言語表現に不可欠なものだと指摘した。
言語それ自体が表現の素材ないし道具として、表現以前にすでに頭の中や辞書の中に与えられていると考えている人びとが、言語学者にも文学者にもすくなくない。この錯覚にも、やはりそれなりの理由がある。空気やインクが与えられるだけでは言語表現は不可能なのであって、表現以前に表現のための規範が与えられこれが作者の概念を媒介する点に、言語表現の特徴がある。この言語規範を言語と混同するところに、言語が表現以前の頭の中に存在するという主張が出てくるのである。[11]『言語学と記号学』所収『時枝誠記の言語過程説』P.202
第6回に続く
Notes:
- 時枝誠記『国語学原論 続編』(岩波文庫、2008年)P.24 ↩
References
↑1 | 時枝誠記『国語学原論 続編』(岩波文庫、2008年)P.18 |
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↑2 | 三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房、1977年)所収『時枝誠記の言語過程説』P.195、強調は原文ママ |
↑3, ↑11 | 『言語学と記号学』所収『時枝誠記の言語過程説』P.202 |
↑4 | 時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫、2007年)P.97,98 |
↑5 | 前掲書P.99 |
↑6 | 前掲書P.29,30 |
↑7 | 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.61,62、強調は原文ママ |
↑8 | 前掲書P.62 |
↑9 | 『国語学原論 続編』P.59 |
↑10 | 『日本語はどういう言語か』P.113 |