「主体の意味作用」
前々回見たように、時枝誠記は「ラング」の意味が「パロール」において限定されるという考え方が、ある場合には妥当であるかのように見えるけれども、詳細に見てみるとこの考え方には問題があることを指摘した。
もし言語の意味が「パロール」において特定の事物を指すように限定されるのならば、例えば話し手が特定の犬を表現するのに単に「犬」とだけ言えば聞き手にその犬の具体的な姿が伝わるはずである。ところが、現実には「犬」という語だけでは「犬」の一般的な概念しか相手に伝わらないのであって、もっと具体的な犬の表象を伝えようと思えば、「犬」に様々な語を付け加える必要がある。ここから時枝は、言語の本質は特定の事物の一般化を通して表現するところにあるとした。
では、言語の意味が「パロール」において特定の事物を指すよう限定されるのでなければ、言語の意味をどのようなものと考えたらよいだろうか?
また、彼は言語表現の対象としては同じだがそれを表す語が複数存在することがあることを挙げて、「例えば、一匹の馬を表すのに何故に、「馬」という「言語」が使用されるか、又は、「動物」という「言語」が使用されるかは、「言」と「言語」との関係を考える上に重要な問題である」と指摘した。
たしかに「ラング」の意味が「パロール」で限定されるという「カタハメ」説ではこのことを十分に説明できない。ここで、同じ対象に対して複数の言語表現が可能なことをどのように説明したらよいか、という問題が出てくるのだが、時枝はこの問題をどのように考えたか?
言語の「意味」はどこにあるか?
音声そのものは空気の振動であり、また文字それ自体は紙の上に書かれた線の集合にすぎないが、時枝はそこに文字通り「意味」というものがあるわけではない、と考えた。彼は「意味を持った音声」(あるいは文字)という表現は「比喩的にはそういう説明が許せるであろうが、それは言語の具体的な経験をそのままに記述したことにはならない 1」とする。
一般に言語は意味を持った音声であるといわれている。しかしながら、それは脊椎骨を持った動物と同じ様な意味に於いては、我々は何処にも意味を持った音声というものを観察することが出来ない。[1]時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫、2007年)P.27
彼は、(ラング説でいうところの)「聴覚映像」によって喚起させられる「概念」や、言語の表現対象である「素材」も言語の「意味」とは見なさなかった。「概念」にせよ「素材」にせよ、音声によって喚起させられるものを「意味」とするのは「言語を心的実体と見る立場」として批判したのである。
意味を言語音声の対応部とする考方は、言語を全く構成体と考える自然科学的見地であるが、意味を音声によって喚起せられる心的表象と考える立場も猶構成主義的立場を脱却したとはいい得ない。音声によって喚起せられるものは、常に必しも表象或は概念に止まらず、時には具体的事物そのものでもあり得るのである。言語の構成要素である意味を心的表象や概念として見るのは猶言語を心的実体と見る立場である。[2]時枝誠記『国語学原論(下)』(岩波文庫、2007年)P.109
言語の最も具体的な経験に即していえば、音声によって喚起される処のものは、心的表象、概念或は具体的事物であって、それは表現者の側からいっても、聴手の側からいっても、言語の素材であるという点からいえば同一である。具体的な一個の「椅子」を指して、「椅子におかけなさい」といった場合の椅子と、「椅子は家具である」といった場合の椅子とは、一方が具体的事物であり、他方が概念であるという相違があっても、言語表現の素材であるということに相違はない。若し具体的な椅子が言語の構成要素の外に置かれるならば、抽象的な概念である椅子も亦言語の外に置かれなければならない。(中略)この様に考えて来るならば、言語の意味は、言語の外にある処のものであって、言語の構成要素とは関係のないものと考えられるのである。若し意味というものを、音声によって喚起せられる内容的なものと考える限り、それは言語研究の埒外である。[3]前掲書P.109,110
もし言語の「意味」が「素材」、「概念」、音声・文字のいずれでもないとすれば、言語の意味は一体どこにあるのだろうか?
時枝は「意味」とは何らかの実体ではなく、「素材」に対する主体の把握の仕方こそが言語の「意味」と考え、これを「主体の意味作用」と呼んだ。
しかしながら、意味はその様な内容的な素材的なものではなくして、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考える。言語は、写真が物をそのまま写す様に、素材をそのまま表現するのでなく、素材に対する言語主体の把握の仕方を表現し、それによって聴手に素材を喚起させようとするのである。絵画の表そうとする処のものも同様に素材そのものでなく、素材に対する画家の把握の仕方である。意味の本質は、実にこれら素材に対する把握の仕方即ち客体に対する主体の意味作用そのものでなければならないのである。[4]前掲書P.110,111
時枝は、同じ事物に対して複数の表現が可能であることをこの「意味作用」から説明した。つまり、同じ事物でありながら表現が異なるのは、主体の事物に対する把握の仕方の違いによるというのである。
客観的に見るならば、「ツクエ」という語によって表現された物も、「モノ」という語によって表現された物も、同一物であるかも知れない。しかしながら、主体的立場に於いて見るならば、同一事物に対する異なった意味的志向が存すると見なければならないのである。その相違が即ち「ツクエ」という語になり、「モノ」という語になるのである。[5]前掲書P.117
又例えば、巡査の出現は、暴漢に襲われようとした者にとっては、「救」として表象されるが故に、「救が現れた」と表現されるであろう。これに反して、暴漢にとっては、「邪魔」として表象されるが故に、「邪魔が入った」と表現されるであろう。[6]前掲書P.118
「主体の意味作用」に対する疑問
一見これで「カタハメ」説が説明できなかった難点を解決したように見えるが、やはりここで疑問が残る。
時枝の説によれば、言語の「意味」とは主体の把握の仕方であるから、「意味」が言語表現とは別に存在することになる。ところが、私たちの多くは文字通り言語は意味を持つと考えている。
つまり、私たちの意味に対する素朴なとらえ方と時枝の説とが一致しないのだが、たとえ素朴な見方であっても、私たちがこのように感じるのには何らかの根拠があると考えるべきではないだろうか?「受容的整序の能力」の場合と同様、この根拠についてもう少し詳しく考えてみる必要がありそうである。
時枝は「素材」、「概念」、音声・文字のいずれも「意味」ではなく、言語の表現過程に「意味」と呼ばれるような実体が見つからないことから、言語自体が意味を持っているという考え自体を否定した。しかし、世の中には手で触れることも目で見ることもできないものもあるから、見えないからといって存在しないとは限らない。
ここで「言語は意味を持つ」というときの「持つ」とは具体的にどういう意味なのか、考えてみよう。
現実には、動物の脊椎骨などとちがって、手でつかむことも目で見ることもできないものがあります。手でつかめず目で見えないから無いのだ、と断定する前に、いま一度よく考えてみましょう。何かを「持つ」というとき、言語の意味と似たような場合がないかどうか、調べてみましょう。
私はりっぱな祖先を持つ。
彼女は暗い過去を持つ。
彼は秘密を持つ。
これらは、カバンやステッキを持ったり、脊椎骨を持ったりするのとはちがいます。祖先はもうこの世にはいません。彼女はスリの一味という生活をもう清算しています。彼が偽造した書類は戦災で焼けてしまいました。このように現実に何ら存在しないものを、これらの人たちが「持つ」と表現されるのはなぜでしょうか? それは、これらの人たちがそれらと関係を持っているからです。これは客観的な関係であって、これらの人たちが現実に存在するかぎり、この関係はいつまでもつきまとうからです。[7]三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.42,43、強調は原文ママ
上の引用で三浦つとむが指摘しているように、私たちが「持つ」ものは必ずしも手でつかめる実体とは限らない。関係は手でつかむことも目で見ることもできないが、私たちはこれを「持つ」ことができる。すると、「言語は意味を持つ」と言うときの「意味」とはある種の関係のことではないか、という予測が立てられるのである。
実際に「意味」の一般的な用語例の中には、「今日の集会は意味があった」や「今から急いでも意味がない」といった例があり、この場合「意味」とは事物と話し手との間の特殊な関係のことである。
時枝もこのことを次のように指摘している。
意味は事物に対する主体的な把握の仕方と考えることによってその本質を理解することが出来るのである。故に某々の語はこれこれのことを意味するということは、正しくは、某々の語によって、これこれの事物に対する主体の意味的把握を表していると見るべきである。「ツクエ」という語の意味は、これこれの物であるのでなく、これこれの物に対する意味を表していると見るべきである。この様な意味の考方は、「意味」という語の一般の用語例にも覗えることであって、例えば、お祭騒ぎは意味がない、長年の苦心も意味があったという様に使用されるのがそれであって、これらの場合の意味ということは、或る事物が話手に対して特殊の関係に於いて結ばれていることを意味する。[8]『国語学原論(下)』P.127,128。傍円は原文、太字は引用者。
一見当たり前のことを言っているように見えるのでさらっと読み飛ばしてしまいがちだが、実はここに時枝の主張の矛盾が隠れている。
彼は「意味」を「主体的な把握の仕方」としているから、表現以前に主体の機能としての「意味」が存在することになる。だが「一般の用語例」では、「意味」は事物と話し手との間の特殊の関係であることを示しているのであって、彼は主体の機能としての「意味」もこれと同じ考え方としているが、同じではない。 2
筆者が太字にした部分を見ていただきたい。意味的把握を「表している」というのだから、この場合の「意味する」とは「表現する」と同義である 3。
以下の文章でも、時枝は「語の意味」とは「表象成立の基礎となる処の事物に対する主体的把握の仕方の表現である」ことを認めている。
語の意味が音声形式に対応する表象でなく、表象成立の基礎となる処の事物に対する主体的把握の仕方の表現であるということは、古語の解釈にとっても重要なことである。例えば、「こゝろもとなし」という語について見るのに、
やをら几帳の綻びより見給へば、こゝろもとなき程の火影に御髪いとをかしげに花やかにそぎて(源氏、みをつくし)右の例の「こゝろもとなき」は、具体的事物に即して考えれば、「ぼんやりした」という程の意である。[9]前掲書P.119、傍線は原文
時枝は「意味」を「事物に対する主体的な把握の仕方」としておきながら、自身の書いた文章の中では別の「意味」の方をうっかり使ってしまっている。どうも彼は「意味」を「主体的な把握の仕方」という意味で使ったり、「主体的把握の仕方の表現」という意味で使ったりと、異なる二つの「意味」を同じ文章の中にうかうかと混在させてしまっているようである。
前者の場合は表現以前に主体の機能としての「意味」があることになるが、後者の場合には表現があって初めて「意味」が成立するのだから、表現以前に「意味」があるとするのはナンセンスである。つまり、両者は全く矛盾してしまっているわけである。
三浦が指摘するように、「主体の機能それ自体を意味と考えるのではなく、この主体の把握した認識と音声や文字とが「特殊の関係に於いて結ばれてゐる」ときに、これを言語の意味と考えるなら、一般の用語例と共通した関係概念における意味の成立 4」である。
三浦は時枝の「意味作用」説について以下のように総括する。
時枝氏が言語を過程においてとりあげようとしたこと、そのことは正しかったのですが、だからといって言語と言語活動が同一だということにはなりません。時枝氏の「意味」についての誤解は、この混同をもたらす結果になりました。音声や文字は、それ自体物理的な空気の振動であり石の上にできた亀裂のようなもので、そこに「意味」はない、と考えたのです。ではどこに「意味」があるか? 言語の過程としては、対象が必要であり、概念もつくられますが、これらが表現のあとで消え失せてしまっても、音声や文字は言語としての資格を失いません。これらは言語の成立条件であっても言語の構成部分ではないのです。すると、対象・認識・表現のいずれも「意味」ではなく、それら以外に「意味」を求めなければならなくなります。そこで時枝氏は、この表現を行う主体の活動そのもの、すなわち対象を認識する仕方を「意味作用」とよび、話し手・書き手の活動そのものが「意味」であると結論しました。(中略)時枝氏が実体を「意味」と考えてはならぬと主張したことは正しかったのですが、「意味」のありかたを実体から機能にうつしたことはまちがいでした。「意味」は機能としてではなく、関係として考えるべきだったのです。[10]『日本語はどういう言語か』P.112
時枝の「意味作用」説に対して、三浦は、音声・文字とそれらが表現されるまでの過程的構造が結びついているとき、この両者の関係こそが言語の意味だと主張した。
言語は、話し手や書き手と聞き手や読み手との間に、精神的な交通を実現するために創造され表現される。話し手や書き手の抱いていた思想を、言語を通じて聞き手や読み手が自分の頭に複製したときに、われわれは言語の「意味をつかんだ」というのである。それゆえ、言語は意味を持っており、思想が目に見えないように思想から生成された意味もまた目に見えない存在であろうと推察することができるはずである。話し手や書き手の、対象を把握した認識が言語の意味を形成する実体であり、この対象から認識への過程的構造が表現によって音声や文字の種類としての側面に超感性的に関係づけられるとき、これが意味とよばれることになる。[11]『言語学と記号学』所収『構造言語学はなぜ意味論を排除したか』P.168
詳細は次回以降述べることにしたい。
第7回に続く
Notes:
- 時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫、2007年)P.27 ↩
- 「言語の表現素材としての事物は、それが与えられた直感の姿に於いては、言語主体にとって、何等意味のないものである。換言すれば、主体とは何の関係も持っていないものである。これを「ツクエ」と表現する為には、先ず事物を「ツクエ」として把握することが必要である。」(時枝誠記『国語学原論(下)』(岩波文庫、2007年)P.116,117)
上の文章から推察するに、時枝は「事物に対する主体的な把握」とはすなわち主体が事物と「関係」を持つことと考えていたと思われる。だが実際には、主体が事物を「把握」するとは、客観的な存在である事物に対する精神的な像を頭の中に作り出すことであって、私たちは通常これを「認識する」と呼んでいる。認識の対象である客観的な事物と精神的な像である認識とは反映という関係によって結ばれているけれども、主体と事物が「関係」を持つことが「主体的な把握」なのではない。
↩ - 例えば、「白旗は降伏を意味する」とは「白旗を上げる」という行為がその人の「降伏」という認識を反映していることの表現である。この場合の「意味」とは、前者の行為と後者の認識との間にある反映関係のことを指している。これが「一般の用語例」における「意味」である。 ↩
- 三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房、1977年)所収『構造言語学はなぜ意味論を排除したか』P.171 ↩
References
↑1 | 時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫、2007年)P.27 |
---|---|
↑2 | 時枝誠記『国語学原論(下)』(岩波文庫、2007年)P.109 |
↑3 | 前掲書P.109,110 |
↑4 | 前掲書P.110,111 |
↑5 | 前掲書P.117 |
↑6 | 前掲書P.118 |
↑7 | 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.42,43、強調は原文ママ |
↑8 | 『国語学原論(下)』P.127,128。傍円は原文、太字は引用者。 |
↑9 | 前掲書P.119、傍線は原文 |
↑10 | 『日本語はどういう言語か』P.112 |
↑11 | 『言語学と記号学』所収『構造言語学はなぜ意味論を排除したか』P.168 |