「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判―10

前回:「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判―9

山川

前回は「数」とはどういうものかについて考えてみました。『すべてのアメリカ人のための科学』を批判的に読むというテーマからは少し外れてしまいましたが、今回はこの著書の批判的検討に戻ります。

「数」について考察することは寄り道ではありましたが、決して無駄なことではありません。寄り道の結果「数」に対する私たちの考えがはっきりしたので、「数学の本質」に書かれている内容をより深く吟味できるようになったはずです。

河山

しかし、私たちが前回扱ったのは日常生活で使う「数」であって、数学の専門家たちが扱っている「数」とは必ずしも同じではないでしょう?

たしかに、まったく同じものではありません。もちろん、数学の複雑な問題を扱うときには専門家が使う厳密な「数」の定義が必要となりますが、「数学の本質」を読むだけであればそこまで厳密なものは必要でありません。「数学の本質」が扱っているテーマは数学の特徴と数学者の思考方法なので、数学の専門知識がなくても内容を理解し検討することはできます。

今回は「数学の本質」を読んで疑問に思うところがないか探すのが目的なので、日常生活の「数」の概念しか知らなくても十分役に立ちます。実際に「数学の本質」を読んでみると、日常生活で使う「数」の概念で考えてみて「変だな」と感じる箇所が少なからずあるはずです。この「変だな」と感じることを深く掘り下げて考えてみることが今回の私たちのテーマです。

さっそく以下の引用を読んでみましょう。

引用l

 数学を使って発想を表したり問題を解くという作業には、少なくとも三つの段階が含まれている。すなわち、(1)物事のいくつかの側面を抽象的に表現し、(2)論理規則を使って抽象概念を操作することによって物事の側面の間に新たな関係を見出し、(3)そうした新たな関係から本来の物事に関して何か有用な事柄が判明するかどうかを検証する段階である。[1]日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.26、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

引用m

抽象化と記号表現 1
 数学的思考は、しばしば抽象化、すなわち、複数の物体又は事象の間に類似性を見出すという抽象化の過程から始まる。複数の物体や事象が共通に持っている側面は、それが具体的なものであれ仮説的なものであれ、数字、文字、その他の印、図表、幾何作図、言葉などの記号によって表される。整数(負ではない)は一連のものや事象の集合の大きさ、又は集合の中のものの順序を表す抽象記号である。概念としての円は、人間の顔、花、車輪、広がるさざなみから抽象されたものである。(中略)記号+は加法を表すが、加えるものがりんごであるかオレンジであるか、時間、又は時間あたりの距離であるかは問わない。(中略)
 こうした抽象化によって、数学者は物事のある特徴に注目し、他の特徴を常に考える必要性を排除する。数学に関する限りにおいて、三角形が帆船の表面を表すものであるか、二つの視点が一つの星に集中することを表すものであるかは問題とはならない。数学者は同じ方法で概念間でも作業することができる。抽象化を行う過程で、研究対象となる事象の結果判断において重要な役割を果たす特徴を無視しないように注意が払われる限りにおいて、その結果として得られる労力の節約は非常に有益なものとなる。[2]前掲書P.26

引用n

数学的記述内容の操作
 抽象化が行われ、それらに関する記号表現が選択された後、それらの記号は、厳密に定められた規則に従って結合や再結合を行うことができる対象物となる。時に、こうした作業は心の中に目標を定めて行なわれ、またある時には起こる出来事を確認するために実験や遊びを通して行なわれる。時には、妥当な操作方法が構成要素となっている単語や記号の直感的な意味から容易に特定できることがあり、また有用な一連の操作方法を試行錯誤の中で見出していかねばならないこともある。[3]前掲書P.26

引用o

応用
 数学的過程は、一種の物事のモデルを導くもので、そこから物事自体に関する洞察を得ることができる。抽象的な記述内容を操作することによって明らかとなった数学的な関係は、モデル化された物事に関する何らかの真理を示したり、時には示さない可能性がある。例えば、コップ2杯の水をコップ3杯の水に加えれば、2+3=5という抽象的な数学的操作が用いられて正しい合計の分量として、コップ5杯という計算がなされる。しかし、コップ2杯の砂糖がコップ3杯の熱い紅茶に加えられる場合に同じ操作を行えば、コップ5杯という間違った分量が示されることになる。実際に出来上がるものは、コップ4杯強の非常に甘い紅茶だからである。量を単純にたし算することが最初の状況では正しかったが、二つ目の状況では正しくなかった。これは、上述の二つの状況における物理的な相違点をあらかじめ知っていれば予測できたことであろう。したがって、数学をうまく活用し、解釈するためには、抽象的な操作の数学的妥当性のみに関心を持つのではなく、それらが表現された物事の性質にいかにうまく対応しているかに関心を持つ必要がある。[4]前掲書P.27, 28

計算の三つの段階

引用lが何を言っているのかわかりづらいです。

おそらく「(1)物事のいくつかの側面を抽象的に表現し」の詳しい内容が引用mで説明され、「(2)論理規則を使って抽象概念を操作することによって物事の側面の間に新たな関係を見出し」が引用n、「(3)そうした新たな関係から本来の物事に関して何か有用な事柄が判明するかどうかを検証する」を引用oで説明されていると思われます。

しかし、この3つの段階が数学の問題を解くことに含まれると言いますが、引用m, n, oを読んだだけでは何を言っているのかよく理解できませんでした。これは具体的にどういうことを言っているのでしょうか?

これは私たちが数を計算するときの思考過程を説明したものです。「物事のいくつかの側面を抽象的に表現し」……などと言われると抽象的でわかりづらいですが、具体例と一緒に考えると何を言っているのかイメージしやすいと思いますよ。

複数の箱に入ったリンゴの数を計算するという問題を例に考えましょう。

今、一箱に16個のリンゴが入ったダンボール箱が50個あるとします。リンゴは全部で何個あるでしょうか?

簡単な計算問題ですね。えーと、16×50……

ちょっと待ってください。答えを出すだけなら簡単ですが、それでは私たちが数の計算をするときにどのような段階を踏んで考えているかを意識的に反省することができません。計算時に私たちがどのような思考をしているか、これから丁寧に確認してみたいと思います。引用lと同じく、計算を3つの段階に分けて考えてみましょう。

第一段階〜事物を数としてとらえ計算式を立てる

計算の最初の段階は、現実の事物を数としてとらえ、計算式を立てる段階です。

前回確認したとおり、私たちはものを単なる量として抽象することで数を認識するのでした。つまり、リンゴやダンボール箱の形や大きさといったものは無視し、単にその量だけに注目するということです。今回の問題では「一箱に16個のリンゴ」と「ダンボール箱が50個」という情報が与えられているので、これらを「16」と「50」という数としてとらえます。

次に、計算対象の事物同士の関係から計算式を立てます。

例えば、「リンゴ2個と3個を足したらいくつになるか」といった足し算の場合は、リンゴ同士を足し合わせるという単純な関係ですので、「事物同士の関係」をことさら意識することはほとんどないと思います。

しかし、今回は単純に「16」と「50」という数字を足し合わせても、その結果は求めているリンゴの個数にはなりません。というのも、「16」はリンゴの量を表していますが、「50」はリンゴではなくダンボール箱の量を表しているからです。つまり、「16」と「50」は全く異なるものの性質を表していて、これらの「関係」を意識しないと正しい計算式を立てることができないのです。

計算式を立てるには、リンゴとダンボール箱がどういう関係性を持っているのかを正しくとらえる必要があります。今回の場合、1つのダンボール箱の中にリンゴが16個あり、その箱が50個分ある、というのがリンゴとダンボール箱との正しい関係です。よって、「16」を50回足し合わせることでリンゴの合計を求めることができます。ただし、50回も足し算を行なうのは手間も時間もかかるので、掛け算という方法で数を計算するわけです。

以上から、16×50という掛け算の計算式を立てることができます。「16×50」は「16」という数が「50」個分あるという関係性を表しています。以上が計算の第一段階です。

文章にすると回りくどいですが、小学校の算数の授業を思い出しますね。計算の仕方を学び始めたばかりの頃は、このぐらいかみ砕いた説明で教わった記憶があります。

数の計算にまだ慣れていない子供に対しては、計算式を立てるまでの過程を1ステップごとに確認しながら教えるのが理にかなっています。計算に慣れてくるとこのような過程を頭の中で一瞬で行えるようになるので、それを取り立てて意識しなくなりますけどね。

第二段階〜計算する

次の段階は、第一段階で立てた計算式を元に計算する段階です。

第一段階で16×50という式が立ったので、これを計算します。計算方法は皆さんすでに知っているとみなして、特に解説しません。暗算で解いてもいいですし、紙に筆算を書いても、電卓を使って計算しても構いません。答えは800です。

これが計算の第二段階になります。

第三段階〜計算結果を現実に役立たせる

計算の第三段階は、第二段階で求められた結果を現実の活動に役立てる段階です。

計算の結果で得られた「800」という数はリンゴの合計数を表しています。ところで、この数を求めたのは、何かしらの目的があって、それを達成したかったからです。目的とは、例えば、現在店舗にあるリンゴの在庫数を知りたいとか、来月リンゴを50箱仕入れたらどれくらいになるか知りたいとかです。

リンゴの在庫数を知りたい場合、店舗にあるリンゴの箱を一つ一つ開けてリンゴの数を数えては手間も時間もかかってしまいます。来月リンゴを50箱仕入れる場合は、そもそも数えるリンゴが目の前にありません。こういう場合、現物のリンゴを数えることなくリンゴの合計数を計算して知ることができれば大変便利です。

あるいは、学校のテストの問題であれば、計算結果を求めること自体が目的になります。

いずれにせよ、計算で得られた「800」というリンゴの数は——計算結果が正しければ——私たちの目的を達成し、現実の活動に役立たせることができます。

少し長くなりましたが、以上が計算という実践の中に含まれる3つの段階です。

簡単にまとめると、

  1. 現実の事物を数としてとらえて計算式を立てる
  2. 計算式を元に計算する
  3. 計算結果を現実の活動に役立てる

の三段階になります。

これらを引用lの3つの段階と比べてみてください。「(1)物事のいくつかの側面を抽象的に表現し」は1の段階、「(2)論理規則を使って抽象概念を操作することによって物事の側面の間に新たな関係を見出し」は2の段階、「(3)そうした新たな関係から本来の物事に関して何か有用な事柄が判明するかどうかを検証する」は3の段階にそれぞれ対応しています。

なるほど、ようやく引用lの意味がわかりました。山川さんのように小学校の算数の問題を例に解説してくれればわかりやすいのに、『すべてのアメリカ人のための科学』の著者はどうして難しい言葉で説明するのでしょうか?

たしかに、その点は私も不思議に思います。

もちろん、数学者が取り組んでいる数学研究は、小学校の算数の計算問題と比べてはるかに複雑な事象を扱いますから、算数の計算で成り立つことが数学研究においてもそのまま成り立つとはかぎりません。

しかし、数学で問題を解く場合の思考過程を専門家でない人に説明するときは、より単純で素人にも親しみやすい例を使って説明したほうが素人にもわかりやすく説明できます。数学の専門家が複雑な問題に取り組む場合も、小学生が算数の問題を解く場合も、その思考過程は本質的には変わらないのですから、算数の問題という単純な例を使って数学者の思考過程を説明することは十分可能だと私は考えます。

私は引用lで述べられていることは全く正しいと思います。しかし、説明に具体例が少なくかつ文章が短いので、数学の専門家でない人にとっては一見何を言っているのか分かりづらいと思われる可能性が高いです。この点が私が不満に思うところです。

具体例として算数の計算問題を取り上げてこれを詳細に分析してみせたなら、それだけでずっとわかりやすい説明になると思います。素人にわかりやすいだけでなく、数学者の思考過程をその本質を過度に単純化することなく読者に伝えることも十分可能です。計算問題を例に挙げて説明することは、私たちが実際にやってみたように、それほど手間のかかることではありません。著者はなぜこれをやらないのか、私には理解しがたいですね。

2+3は5にならない?

引用oを読んでいて引っかかることがあります。

ここではコップ2杯の砂糖をコップ3杯の紅茶に加えてもコップ5杯の紅茶にならないという例が挙げられています。このこと自体は正しいと思います。一方で、「2+3=5」という数式も当然正しいです。しかし、砂糖を紅茶に加える場合には「2+3=5」が正しくなくなるというのがどうも腑に落ちません。

コップ2杯の水にコップ3杯の水を加えるときには「2+3=5」は正しいけれども、他の場合にこの数式を当てはめてみると正しくならないことがある。これはなんだか矛盾しているようで、変な感じがします。

引用oを読んで変だと感じるのは、きっと「2+3=5」がいつでも正しいという考えが頭の中にあるからですね。実は「2+3=5」はいつでも正しいとは限らないのです。この数式が正しくなるのは「2」と「3」が同じ種類のものの量を表しているときにかぎります。つまり、「2」と「3」がともに水の量であったり、砂糖の量であったりした場合にのみ上の式は正しくなります

先ほどのリンゴの計算問題では、一箱あたりのリンゴの数「16」と箱の数「50」を単純に足し合わせてもリンゴの合計数にはなりませんでしたね?これと同じことです。「2」と「3」が一体どういうものの量を表しているのかに注意する必要があるのです。

たしかにそのとおりです……私は「2」や「3」が何の量なのか考えず、「2+3=5」をそのまま現実に当てはめる癖がついていたようですね。

落ち込む必要はありませんよ。大人でもこの問題に引っかかる人はきっと多いと思います。

たしかに「2+3=5」は数についての一般的な法則性を表したものです。これは「2」と「3」がどういうものの量を表していても——「2」と「3」が同じ種類のものの量であるかぎり——それらを足し合わせたら「5」という数になることを示しています。このことから私たちは「2+3=5」がいかなるときでも絶対に正しいと思い込みがちです。

しかし、現実の計算問題では、「2」や「3」がどういうものの量を表しているのかを考えずに「2+3=5」という数式を当てはめようとすると、失敗してしまいます。

先ほどの砂糖と紅茶の足し合わせに似た問題を一つ出しましょう。河山さん、「1+1=2」は正しいですか?

はい、正しいと思います。

水1リットルと水1リットルを足し合わせると2リットルになる、これも正しいですか?

はい、正しいです。

では、水1リットルと米1リットルを足し合わせると2リットルになる、これはどうでしょう?

えーと……水1リットルと米1リットルを足したことはありませんが、たしか水と米を同じ量だけ足しても元の2倍の量にはならなかったはずです。なので、2リットルにはならない……と思います。

そのとおりです!「1+1=2」は水と米を足すときには成り立ちません。

実は、水と米を1リットルずつ足すと約1.6リットルになります。これは、米を計量カップで計った場合、米と米の間にわずかな隙間ができるからです。水はこの隙間にも入り込むことができますから、水と米を合わせたとき、米の隙間に入らない水の容積が元の約60%になるというわけです。

このことは実験してみるとすぐにわかることですが、水と米のありかたを無視して「1+1=2」を現実世界に当てはめようとすると、この問題に引っかかってしまいます。

ここで注意してもらいたいことは、「1+1=2」という式では水や米のありかたが抽象されていることです。

つまり、この式の「1」は、一方は「水1リットル」を表し、他方は「米1リットル」を表しているのですが、「1+1」では水や米の性質が抽象されていてそれを読み取ることができません。そのため、「1+1=2」を無条件に信じていると、水1リットルと米1リットルを足して2リットルの混合物ができるという誤った結論を引き出す羽目になります。

「2+3=5」の場合も同じです。この「2」や「3」が紅茶の量を抽象した数なのか、あるいは砂糖の量を抽象した数なのか、現実のありかたを見て確認しないと、コップ2杯の砂糖とコップ3杯の紅茶を足し合わせて5杯分の紅茶ができるという誤った結論に陥りかねません。

先ほどの箱に入ったリンゴを計算する例では、リンゴとダンボール箱との関係性から計算式を立てるところから計算を始めたので、「16」や「50」が何を抽象した数なのか間違うことはありませんでした。

しかし、砂糖を紅茶に加える例では、はじめに「2+3=5」があって、これを現実に当てはめようとしていたので、「2」や「3」が何の量を表しているのか現実のありかたを見て確認する必要があったわけですね。

そうです。はじめに一般的な法則があってそれを現実のありかたに当てはめようとするときは、十分に注意する必要があります。

つまり、抽象的なものを扱うときは、いつでも現実のありかたと突き合わせて考え、数字やことばに表れていない重要な現実のありかたを見逃してはいけない、ということです。

以上の話をまとめると、引用oは間違ったことは言っていないわけですね?

抽象的なものを現実に応用するときは注意せよ、という結論自体は間違っていません。

しかし、厳密にいうと、砂糖と紅茶の問題は数式の計算結果を現実に応用する段階の問題ではありません。これは、コップ2杯の砂糖とコップ3杯の紅茶を足し合わせることから「2+3」という計算式を立てること自体に誤りがあります。言い換えれば、これは計算の第一段階——現実のありかたから計算式を立てる段階——の問題であって、計算の第三段階——計算結果を現実に応用する段階——の問題ではありません。

第11回に続く

Notes:

  1. 強調は原文ママ。以下同。

References

References
1 日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.26、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf
2, 3 前掲書P.26
4 前掲書P.27, 28