山川 |
前回は、花の絵を見ながら「数える」とはどういうことかについて考えました。 今回は「数」とはどういうものかについて考えてみましょう。今回も、パブリックドメインの画像を提供しているサイト 1からダウンロードした以下の絵画[1]ダウンロード元 https://www.oldbookillustrations.com/illustrations/camellia-narcissus-pansy/ 2を使いながら話を進めていきます。 |
河山 |
さっそくですが、「数」とはどういうものですか? |
山 |
一言で言えば、「数」とはある単位「1」を決めた時、それではかった対象の量ということができるでしょう。しかし、この説明だけでは「数」に対して今ひとつピンとこないのではないでしょうか。なので、「数」についてもっと理解を深めるため、もう少しお話を続けたいと思います。 |
数と抽象
山 |
まずは簡単な話から始めましょう。数とは直接関係ありませんが、少しの間我慢して聞いてください。 河山さん、初歩的な質問で申し訳ありませんが、この絵に描かれている花の色にはどんなものがありますか?すべて挙げてみてください。 |
河 |
白、赤、紫ですね。右上のスイセンの花びらは真ん中が黄色ですが、これも含めたほうがいいですか? |
山 |
いえ、ここでは白、赤、紫の3色で十分です。では、八重咲きの花はどれですか? |
河 |
八重咲きというと、たしか下の方にある大きな花2つがそうでしたね? |
山 |
そうです。前回も述べましたが、この花は八重咲きのツバキです。 最初の質問では花の色に、次の質問では花の形に注目してもらいました。花には形や大きさなど様々な性質がありますが、そのうち色という性質、あるいは形という性質のみに注目して花をみてもらったわけです。花の色に注目するとき、形や大きさといった他の性質は無視します。もちろん、花の形や大きさを無視したからといって、その性質が花から消えてしまうわけではありません。ただ頭の中でその性質を一時的に考えないようにするだけです。 このように対象の特定の性質だけに注目して他の性質を無視することを抽象するといいます。花の色にはどんなものがあるかを考えるときは花の色を抽象し、八重咲きの花を探すときは花の形を抽象して花を見たわけです。 |
河 |
「数」と「抽象する」ことはどのような関係があるのでしょうか?これまでのところあまり関係があるようには見えませんが……。 |
山 |
実は大いに関係がある話なのです。というのも、抽象なくして数を考えることはできないからです。このことは後で取り上げるので、今は頭にだけ入れておいてください。 ここからが本題です。 前回は絵の中に描かれている花を数えてもらいました。花は11ありました。 「花が11ある」ということを頭に入れるだけならば、具体的な花の形を覚える必要はありません。「花」1つ分を「🌼」という絵文字のようなイメージと置き換えて、これが11個並んでいる様を頭に思い浮かべてもよいはずです。これを絵文字で表現すると、下のようになります。 🌼🌼🌼🌼🌼🌼🌼🌼🌼🌼🌼 |
河 |
たしかにそうですね。花11個を表現するのに絵文字を11個並べる人が実際にいるのかどうかは別として。 |
山 |
ここで大事なことは、数える対象である花の性質の多くが無視されていることです。つまり、「🌼」を複数並べた場合では、花の色や形、大きさといった性質は無視され、皆同じ「🌼」に置き換えられています。 ここでは、花に対する認識のありかたが単純化されていることに注意してください。つまり、表現する際に花の形を詳しく描くのが手間だから簡略化して描くだけでなく、私たちの花に対するとらえ方、すなわち認識もまた単純化されているのです。絵の中ではスイセン、ツバキ、パンジーといった花がありましたが、ここでは個々の花の特徴は無視され、皆同じ「花」つまり数える単位としての「花」として認識されています。花の量だけに注目したいなら、このような認識でも十分です。 このように対象の特定の性質だけに注目して他の性質を無視することを抽象するというのでしたね。 |
河 |
なるほど、ここで先ほどの抽象の話が出てくるのですね。 |
山 |
そうです。抽象なくして数を考えることはできないと前に言ったのはこういうわけです。 |
花をさらに抽象化してとらえる
山 |
さて、先ほどの絵文字をもっと単純化して、「花」1つ分を単なる1本の線に置き換えることもできます。河山さんはものを数えるとき「正」の字を紙に書いたことはありませんか? |
河 |
あります。「正」の字を1画ずつ書いて、5つ数えたら「正」の字が1つできるというものですよね。指を折って数えるときは11以上は数えられませんが、この方法だと10より大きい数も数えられて便利です。「正」の字1つが5を表しているので、数え終わったあとに数を計算しやすいことも利点ですね。 |
山 |
まさにそれです。このような表現は、日本だけでなく東アジアで一般的であるそうです。海外では、4までは縦線(|)を1本ずつ書き5は4本線を通るように斜線(\)を書く方法や、枡記号(〼)を1画ずつ書く方法などがあるそうですね。このような表現方法を画線法といいます。河山さんが言われたように、10より大きい数を数えることができ、5で1つのまとまりができるので計算しやすいというメリットがあります。 先ほどの花の絵文字を画線法で表せば、下のようになります。 正正一 |
河 |
「正」2つと漢数字「一」を並べて書いただけですね。 |
山 |
まあ、11という数を伝えることはできるので、これで勘弁してください。 大事なことは、これは花の絵文字以上に抽象化された認識を表していることです。ここでは表現形式が単なる線に単純化されているだけではありません。表現が表しているもの、すなわち認識もまた抽象化されていることに注意してください。つまり、ここでは数える対象が花であることさえ無視され、ただその量のみが認識されています。花の一般的な特徴まで徹底的に無視されているのですから、絵文字のときよりも抽象の度合いが高いといえますね。 |
河 |
「正」の字を書いて数える方法は、花以外のものにも使えますね。人やリンゴ、魚、鳥、石、山、星を数えるときにも、みな同じように「正」の字を書いて数えることができます。 |
山 |
そうです。数える対象は形も大きさもバラバラですが、対象の量だけに注目したいときは、量以外の性質を無視しても構わないのです。「正」の字が表しているのは、対象の量のみに注目した認識、つまり量を抽象してとらえた認識にほかなりません。この認識は、先ほど私が述べた「数」にかなり近いものといえます。 |
数とは何か
山 |
対象の量を認識するだけならば、線や点という形さえ必要なく、これを無視することができます。ここまで抽象された量に対する認識は、もはや線でも点でもなくなりますが、「100」や「1000」という大きな数を認識するときはこのほうが便利です。というのも、「100」を思い浮かべるとき、点や線を毎回100個頭の中に並べていては手間がかかりますから。 ここまで徹底して量を抽象したものが「数」です。これを一言で述べると、先ほどの「数」の定義になります。 「数」とは、ある単位「1」を決めた時、それではかった対象の量のことです。 数える対象と数える単位が何であろうと、「数」はあらゆるものの量をとらえるのに共通して使えます。人が2人いるときも、リンゴが2個あるときも、魚が2匹いるときも、それらの量つまり「数」としてはみな同じです。ある単位「1」——それが人にしろリンゴにしろ——がもう一つあるとき、その量が「2」です。「2」よりもう一つ多い量を「3」とします。以下、「4」「5」「6」……と次々に数を定義できますね。これが数学でいうところの「自然数」です。 もちろん、この定義は、数学という学問の中で使われる厳密なものではないことはお断りしておきます。しかし、前回も述べましたが、定義の正しさはいつでも条件付きです。数学の専門家でない私たちが普段の生活でものを数えたり計算したりする範囲内では、このような理解で十分だと私は考えています。 |
河 |
要するに「数とはものの量のこと」ですね。言われてみれば当たり前のことです。一方で、数は点でも線でもない、見ることも触ることもできないというのは、今ひとつとらえどころがないように感じます。 |
山 |
たしかに、そう感じるのも無理はありません。「数」は現実の物体のほとんどの性質を無視してその量だけをとらえたもので、高度に抽象化された概念といえます。目にも見えない、触ることもできない、ただ私たちの頭の中でのみ認識できるというのですから、「数」はお化けや妖怪と同じ空想の産物のようにさえ思われるでしょう。 しかし、抽象的な概念というものはすべてこのようなものともいえます。 例えば、「愛」や「憎しみ」も抽象的な概念です。抽象的だからといって「愛」や「憎しみ」が空想の産物だということにはなりませんね?「愛」は愛するという現実の行為から抽象された概念で、現実に根拠を置くものです。「愛」という概念では、愛する人がどういう人間か、愛される対象がどういうものか、どういう愛し方なのかはまったく抽象されています。なので、すべての愛する人に対して「愛」という概念を共通して使えるわけです。ただし、それは見ることも触ることもできず、私たちの頭の中でのみ認識できるものです。 |
エウクレイデス『原論』の定義
山 |
「数」に関する話のまとめとして、最後に、古代ギリシャの数学者エウクレイデス(ユークリッド)の数学書『原論』第7巻から「数」に関する定義を紹介しましょう。 |
1. 単位とは存在するもののおのおのがそれによって1とよばれるものである。
2. 数とは単位から成る多である。[2]『ユークリッド原論』(中村幸四郎・寺阪英孝・伊東俊太郎・池田美恵 訳・解説、共立出版、1971年)P.149
河 |
意外と山川さんの「数」の定義に似ていますね。「1」を数の単位とするところが特に。むしろ、山川さんがこの定義を見て先ほどの「数」の定義を思いついたのではありませんか? |
山 |
いえいえ、似ているのは偶然です。実は、私が「数」とはどういうものか考え始めたときはエウクレイデスの『原論』をまだ読んだことがありませんでした。「数」に対する自分の考えがある程度固まった後で『原論』を読みました。 しかし、もし私がはじめに『原論』の定義を読んでいたとしても、きっと十分に理解できなかったと思います。「数える」ためにはまず何を「1」とするかを決めなければいけない、ということに気づいていなかったからです。これに気づいたときにはじめて『原論』の定義の意味がわかるのではないでしょうか。結局、私は花の絵から考察を始めて、古代の数学者の「数」の定義までたどり着いたことになりますね。 先ほど私はエウクレイデスの定義と似た結論に至ったのは偶然だと言いました。しかし、人間の考えることはみな「似たり寄ったり」だということを考え合わせれば、単なる偶然の一致とは言い切れないかもしれません。もしエウクレイデスを代表とする古代の数学者たちが、私と同じく現実の物体から考察を開始し、私と同じ過程を経て考察を進めていったのだと仮定したら、彼らが私と同じ結論に到達したことはそれほど不思議ではないはずです。結論が同じだからといってそこに至る過程も同じだと即断することはできませんが、少なくともその過程に相似点がある可能性は考えられます。 もちろん、これは憶測の域を出ないことはお断りしなければなりません。古代の数学者たちが実際にどのような過程を経て「数」という概念をとらえるに至ったかは、『原論』の定義からは読み取れません。私たちは、その過程がきっとこういうものだっただろうと想像するほかないのです。 いずれにせよ、私が「数」について考えたことは――どういう過程を経たのかはともかく――古代の数学者がすでに考えて到達していたことは興味深いことだと思われます。 ここからは余談です。 現実の物体から「数」という概念を抽象化して得る過程を考えるとき、助数詞という言葉の存在はとても興味深いものです。 前回、ものを数えるにあたって何を「1つ」とみなすかを考えるときに、私たちは助数詞を取り上げました。助数詞が表現する認識は、数える対象の現実のありかた——いいかえれば現象的形態——よりは抽象化されていますが、「数」よりは具体性をもつものです。その認識は、たとえるなら、以前取り上げた花の絵文字のようなものといえるでしょう。 「花2輪」といえば、花の絵文字のようなものが2つあるという認識を指します。「2輪」は人や魚には使えません。それは花を数えるときにしか使えず、その点で数の「2」よりは具体的な認識といえます。しかし、「花2輪」というとき、それがどんな花なのか、スイセンかツバキかパンジーか、白い花か赤い花かは、抽象されていて読み取ることができません。その意味では、花の具体的な現象形態に対する認識よりも抽象化されているといえます。 もちろん、助数詞はあくまで表現であって、それが表している認識とは区別されなければなりません。しかし、助数詞が表している認識は、抽象度でいえば、対象の具体的な形態を保った認識と、高度に抽象化された「数」との間にある、中間的な形態をもつことは注目に値します。この中間的認識がさらに抽象化されると「数」になることは前に考察したとおりです。 人類が現実の物体から「数」という量の概念を抽象する過程が遠い過去——歴史書が登場する以前の大昔——にあったことは間違いありません。その過程の中で人類が「数」より先に手に入れたのは、助数詞が表現しているような「数未満」の、中間的抽象概念であっただろうと推測することは、あながち間違いではないだろうと私は考えます。 |
第10回に続く
Notes:
- https://www.oldbookillustrations.com/ ↩
- 絵の作者は18・19世紀ベルギー(当時は南ネーデルラント)出身の画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ(1759-1840) ↩
References
↑1 | ダウンロード元 https://www.oldbookillustrations.com/illustrations/camellia-narcissus-pansy/ |
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↑2 | 『ユークリッド原論』(中村幸四郎・寺阪英孝・伊東俊太郎・池田美恵 訳・解説、共立出版、1971年)P.149 |