理論が人間に予測させる?
引用g
科学は説明し、予測する 1
科学者は,現在受け容れられている科学原理を用いるか,又はそれに適合するような説明方法を発明することで,現象についての観察に意味を持たせようと努力する。こうした説明すなわち理論は,その範囲が広範なものも限定されたものもあるが,いずれにしても論理的に矛盾することなく,科学的に有効な観察の重要な部分を取り入れられるものでなければならない。科学的理論の信頼性はしばしば,以前には関連性がないと思われていた現象間における関連性を示す能力から生まれてくる。例えば,大陸移動理論は,地震,火山,様々な大陸における化石の種類の合致,大陸の形状,海底の等高線など様々な現象の関係を示すことによって,信頼性を高めてきたのである。
科学の本質は,観察による検証にある。しかし,既に知られている観察結果のみに符合するだけでは科学理論として十分ではない。理論はまた,最初の段階で理論の形成に用いられなかった追加の観察結果にも符合しなければならない。すなわち,理論は予測的な力を持たなければならないのである。理論の予測的な力を実証する上では,必ずしも将来における出来事の予測が必要となるわけではない。予測は,まだ発見又は研究されていない過去における証拠に関係する場合もある。[1]日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.18、19、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf
河山 |
続いて引用gについてです。ここでいう「理論は予測的な力を持たなければならない」とはどういう意味でしょうか?たしかに、理論は未来の出来事を予測するのに役立てることができます。しかし、このように言われると、理論というものに一種の超自然的な力があると主張しているようにも見えるのですが…… |
山川 |
たしかにこれは不適切な表現です。科学理論はいかなる超自然的な力をも持つものではありません。ここで著者が言いたいのは、人間は理論を用いることで将来の出来事を予測することができる、ということでしょう。理論が不思議な力を作用させて人間に予測させるのではありません。「人間が理論を用いる」のが本来なのに、これを「理論が人間を予測するよう仕向ける」と言ってしまうと事実と逆さまになり、誤りになります。 私たちが理論の助けを借りて将来の出来事を予測できるのは、理論が特定の現象に関する一定のパターン(法則性)を捉えているからにほかなりません。すでに知られているパターンに従えば「この現象が起きたら、次はこういう現象が起こるだろう」と予測できるというわけです。なぜ理論を用いると将来の出来事を予測できるのかを正しく理解できていれば、先ほどのような逆立ちした発想をすることはないはずです。 |
個人と社会集団との間で意見が対立することもある
引用h
科学者は偏向を特定し、回避する
何かが真理であるという主張に直面すると,科学者はどういった証拠がそれを支持しているかという質問をする。しかし,科学的な証拠は,データの解釈方法,データの記録又は報告,そして第一にどのデータを考慮するかといったことにおいて偏向する可能性がある。科学者の国籍,性別,出身民族,年齢,政治的信念などといった事柄が,特定の種類の証拠や解釈を重視する方向に向かわせる可能性がある。(中略)
研究者,標本,手法,又は装置に起因する偏向を,すべての事例において完全に避けることはできないかもしれないが,科学者は偏向の原因を探り,偏向が証拠に与える影響を知ろうとする。科学者は,他の科学者の活動に関して同様に,自らの活動において可能性のある偏向に注意しようとする。また,そうすることを期待されてもいるが,このような客観性は必ずしも実現されるとは限らない。偏向が研究分野において見過ごされないようにするための一つの予防策は,多くの異なる研究者又は集団を活動させることである。[2]前掲書P.19
引用i
科学は権威ではない
科学においては,他のあらゆる分野におけると同様,通常の場合は関連の学問分野を専門とする人々などの知識豊かな情報源や見解に注目することは妥当である。しかし,科学の歴史の中で,尊重された権威が幾度か過ちを犯してきた。結局のところ,いかに著名であれ,また高い地位に就いていても,他の科学者のために何が真理であるかを判断する権限は誰も持っていないのである。なぜなら,誰も真理を特別に入手できる経路を持っているとは考えられていないからである。科学者がそれぞれの研究を通じて達しなければならないようなあらかじめ確立された結論は存在しないのである。
短期的に見れば,主流となっている思想にうまく適合しない新たな思想は激しい批判にさらされる可能性があり,そうした思想を研究する科学者は研究に対する支持を得る上で困難に直面するかもしれない。実際のところ,新たな思想に対する挑戦は,有効な知識を確立しようとする科学にとっては正当な行為である。時には,たとえ最も権威のある科学者であっても,他者を納得させるに十分な証拠の蓄積があるにもかかわらず,新たな理論を受け容れようとしないことがある。しかし,長期的に見れば,理論はその結果によって判断されるものである。つまり,誰かが以前の見解よりもより多くの現象を説明し,またより重要な疑問に答えられる新しい見解を生み出せば,それが最終的に以前の見解に取って代わることになる。[3]前掲書P.19、20
河 |
最後に引用hと引用iについてです。hでは科学理論は各科学者ごとに偏向があると主張する一方で、異なる科学者の研究活動によってその偏向を防ぐことができるとも言っていますが、偏向は防げるのか防げないのかどちらなのでしょうか? これと同様に、iでも矛盾したことを言っているように見えます。つまり、正しい科学理論は権威者によって迫害されることがある一方で、長期的に見れば最終的には正しい理論が受容されると述べています。これもやはり矛盾ではありませんか? |
山 |
たしかに矛盾ですね。しかし、矛盾ではあっても決して間違っていません。これは前に見た引用bと引用cの場合と同じで、矛盾した2つの主張を統一した形で捉える必要があります。 hで主張されていることを一言でまとめれば、個々の科学者が支持している理論と科学者の集団全体が支持する理論とは食い違うことがある、そして(条件次第ではあるが)その矛盾は解決されうる、ということでしょう。ここでは、科学者個々人の理論が持つ誤りは科学者集団の中において訂正されうることが述べられています。iの主張も基本的にこれと同じですが、こちらは個人の科学者が持つ理論のほうが正しくて特定の社会集団の中で支持されている理論のほうが間違っている場合ですね。いずれの場合も、個人が支持する理論と社会集団が支持する理論とが矛盾しつつ存在しています。 科学は現実に存在する現象や法則性と正確に一致することを目指すものではありますが、しかしすべての人がすんなりと正しい科学理論を受け入れるとは限りません。科学の発展過程では異なった意見を持つ科学者たちが相互に対立することは珍しくありませんし、正しい科学理論が社会に広く受け入れられるようになるまでにとても長い時間がかかることもあります。 |
河 |
そういえば、天動説と地動説との間にもこのような対立がありましたね。同じ法則性を見ているはずなのに科学者の間で意見が異なってしまうのは、法則性に対する認識がみな同じになるとは限らないからですね。 |
山 |
そうです。こういった事実は、科学理論はいかなる時にも誰にとっても正しい絶対的な真理ではないことを示しています。むしろ、科学理論は相対的な正しさを持つ認識なのです。 |
河 |
ところで、引用iの言うとおり、短期的には間違った理論の方が幅を利かせても、長期的には正しい理論が受け入れられるというのは本当でしょうか? |
山 |
正しい理論が受けれ入れられたというのは、ある理論が社会に受容されるようになるまでにたどった長く曲がりくねった過程の単なる結果に過ぎません。この長く複雑な過程を無視してその結果だけを見るならば、「最終的には正しいほうが勝つ」とも見えるでしょう。 しかし、それでは誤った理論が長い間人々に支持されていたという事実を無視することになります。かつて唱えられた天動説も、部分的には天体の運動を正しく説明していたために、長い間天文学者から支持を受けたのです。間違っている理論も、部分的な正しさがあれば人々の支持を受ける可能性は十分あります。理論の正しさとそれが社会に受容されることとは、関係はありますが、別問題として扱うべきです。 今回お話したのは、個人と社会集団との間の科学理論の矛盾という問題でした。この問題は、より一般的に捉えるならば、認識の社会的共有という問題に還元できます。よって、科学論においてはこの認識の共有という問題について真正面から考察する必要があるのです。 |
第7回に続く
Notes:
- 強調は原文ママ。以下同。 ↩
References
↑1 | 日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.18、19、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf |
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↑2 | 前掲書P.19 |
↑3 | 前掲書P.19、20 |