「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判―5

前回:「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判―4

理論と仮説の違い

引用f

科学は論理と想像力の融合である 1
 仮説や理論の形成にはあらゆる種類の想像力や思考力が利用されるが,遅かれ早かれ,どのような科学的主張であっても論理的推論の原則に合致しなければならない。すなわち,推論,実証,常識に関する一定規準を適用することで,主張の有効性は試されなければならないのである。科学者は,しばしば特定の証拠の価値や特定の想定の妥当性について見解が異なるため,正当化すべき結論に関する見解が異なることがある。しかし,証拠と想定を結論に結びつけるための論理的推論の原則については,科学者の見解は一致する傾向にある。
 科学者は,データや適正に構築された理論のみを使って研究活動を行うわけではない。しばしば,科学者は物事の実体を表すと思われる暫定的な仮説しか利用できないことがある。このような仮説は,科学において,注目すべきデータや追加すべきデータを選択したり,データを解釈する指針としたりする目的で広く用いられている。事実,仮説を立ててそれを検証することは,科学者の中心的活動の一つである。仮説に有用性を持たせるには,仮説を支持する証拠と仮説の反証となる証拠を明確にする必要がある。本来的に証拠を検証することができない仮説は,興味深いものではあるかもしれないが科学的には有用ではない。[1]日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.17、18、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

河山

次に引用fについてですが、ここでいう「論理的推論」とは一体どういう意味でしょうか?「論理的」という言葉は日常よく使われますし、その意味は一見自明であるように思えます。しかし、改めてどういう意味なのか考えてみるとはっきり答えることができません。

山川

たしかに「論理」は科学において重要な概念ですから、「論理とはなにか」についてはっきりさせておく必要がありますね。果たして論理とは人間の頭の中にある一定の思考パターンのことをいうのでしょうか?それとも、人間の外の世界に存在する諸現象をつらぬく一般的な法則性のことでしょうか?論理をどう定義するかによって科学論の内容がずいぶん違ってきます。一見自明に見える概念でもその定義は明確にしておくべきですね。

ほかに不明確な用語はありませんか?例えば、「理論」と「仮説」との違いについてはっきり説明することができますか?

そう改めて訊かれると、たしかに答えることができません。

それはきっと「理論」と「仮説」という2つの概念があなたの頭の中で明確に区別されていないからですね。「理論」と「仮説」はいずれも科学において重要な概念ですから、この2つについてもはっきり定義しておく必要があります。

しかし、引用元ではこれらを明確に定義していません。「論理」にせよ、「理論」と「仮説」にせよ、科学論において重要な概念が明確な定義もなく不用意に使われているのが、私には不満ですね。

ところで、「理論」と「仮説」はどう違うのでしょう?

私の考えを簡単に述べてみましょう。

まず「理論」とは法則性に対する認識のことです。この点で「理論」は「法則」と同じで、私は両者を同じ意味で使いたいと思います。

一方「仮説」とは法則性に対する予想のことです。法則性とは現象や運動のありかたに関するある一定のパターンのことで、法則性に対する認識である「法則」と区別される、ということは前にもお話しました。予想は認識の一種ではありますが、理論は認識と現実が一致していることが実験などによって確かめられているという点で、仮説と区別されます。その意味では、理論を「(現実と一致することが確認された)法則性に対する認識」と定義しても良いかもしれません。

仮説は予想、理論は正しいと確認された認識。山川さんの定義は明快ですね。ただ、仮説と現実がどのくらい一致したらそれを理論と呼べるのかについては、議論の余地があるように感じました。

たしかにそのとおりです。理論と仮説の違いはあくまでも相対的なものと考えてください。

しかし、両者の区別が絶対的でないからといって、両者の間に全く区別がないとするのは間違いです。科学理論の中にも部分的に誤りが含まれることがありますが、科学理論は絶対的な真理でなければならないと考える人は、このような理論を「科学」と認めないかもしれません。そこから、誤りが含まれている科学理論を仮説に「降格」させたり、さらに進んで「科学の体系はもともと信頼できないもので、すべての科学は仮説にすぎない」と科学の仮説への解消を主張したりする人さえ出てきます。しかし、理論に誤りが含まれているからといって、それが仮説に後退してしまうことはありません。科学の理論はあくまで相対的な真理であって、部分的に誤りがあっても、一定の条件内ではその理論が正しいことには変わりがないからです。

再び天文学の歴史から例を挙げましょう。先ほども述べたとおり、コペルニクスは当時学会で支配的だった天動説に対して地動説を提唱したことで知られています。現在、天体の運動に関しては天動説よりも地動説のほうがより科学的な理論だと一般に認識されています。なので、天動説よりもコペルニクスの理論のほうが現実により一致しているというイメージがあるかもしれませんが、実際は必ずしもそうではありませんでした。実はコペルニクスが提出した理論も、当時学会で支配的だった天動説に基づいた理論も、当時の天体の観測値にどれだけ正確に合致するかについては、それほど違いがなかったことが知られています。 2これはコペルニクスが惑星運動の軌道を純粋な円としていたところに誤りがあったためですが、後の時代にケプラーがこれを楕円軌道に修正してからは、地動説のほうが天体の観測値により正確に合致するようになりました。

もしこのことからコペルニクスの理論を単なる「仮説」にしてしまうとしたら、それは明らかに間違いでしょう。彼の理論の部分的な誤りをケプラーが訂正したのであって、コペルニクスの理論が持つ部分的な正しさまで否定するのは行き過ぎです。

このように科学は、理論の中に部分的な誤りがあった場合、別の仮説の提唱およびその検証という作業を通じて理論の改良を行ってきました。この改良の過程を繰り返しながら科学は発展してきたといっても過言ではありません。たしかに科学理論にも仮説にも誤りが含まれていることがありますが、だからといって両者は同じものではありません。科学と仮説を同一視するという誤った主張は、この共通点をとらえて誇張するところにあると言ってよいでしょう。

理論と仮説の違いを考えるだけでも、なかなか奥が深いですね。

そうでしょう?理論と仮説の違いを詳細に説明するだけで1つの論文が書けそうです。奥が深いという点では論理についても同様です(論理については今回触れることができませんでしたが)。「論理」「理論」「仮説」は科学論において大事な概念です。これらについては別の機会にもっと掘り下げて考察してみたいと思います。

第6回に続く

Notes:

  1. 強調は原文ママ。
  2. これは当時の観測記録の精度が悪かったことも影響している。この精度の問題はケプラーの時代に大幅に改善した。

References

References
1 日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.17、18、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf