「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判―3

前回:「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判―2

法則と法則性

引用a(再掲)

世界は理解できる 1
 科学は、体系的で注意深い研究を通して、宇宙や世界の物事と出来事は理解可能な一貫したパターンで起こることを前提としている。科学者は,知性を活用することにより,また感覚器官の延長としての道具の助けを得ることによって,自然界のすべての物事を発見できると考えている。
 科学はまた,世界はその名が示すように巨大な単一のシステムであって,その中ではどこにおいても同一の基本的な法則が当てはまるということも前提としている。世界のある一部分の研究から得られた知識は,他の部分にも適用できるということである。例えば,地球表面上における落下物の運動を説明する運動と重力の法則は,月や惑星の運動も説明できる。多くの年月の中で変更は加えられているが,運動に関する同一の法則は,他の力や,最小の素粒子から最も質量の大きい星,あるいは帆船から宇宙船,弾丸から光線に至るまで、あらゆるものの運動に適用されてきた。[1]日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.15、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

山川

先の引用箇所に関してほかに疑問に思うことはありませんか?

河山

引用aの「科学は、体系的で注意深い研究を通して、宇宙や世界の物事と出来事は理解可能な一貫したパターンで起こることを前提としている」がちょっと分かりづらいです。ここで言われているのは、要するに<世界で起る現象にはある一定の法則性が存在する>ということでしょうか?

はい、それであっています。一言で言えば、科学はそのような法則性に対する認識を獲得することを目的とするというわけです。このこと自体は正しいのですが、私はこれに加えて「法則」と「法則性」の2つを区別して用いるべきだと主張したいですね。私の言う「法則性」とは、我々の世界に存在する様々な現象や運動のありかたに関するある一定のパターンのことで、一方「法則」とは「法則性」に対する認識のことです。

どうして「法則」と「法則性」を区別する必要があるのですか?

一言で言うと、両者を混同してしまうと困ったことが起きてしまうからです。

例えば桜の木を考えてみましょう。春になると桜のつぼみがふくらみ、やがて花が咲きます。1週間ほど咲いたあと花は散ってしまいます。花が散ると実ができて、若葉が生えてきます。初夏になるころには青々とした葉っぱをたくさん生やすわけです。秋になると緑色だった葉が赤く染まり始めます。冬が来る前に葉はすっかり落ちてしまい、枯れ枝ばかりの木となります。そして次の春が来ると花を咲かす、というように再び同じ活動を繰り返します。つまり、桜の木の活動は1年を周期に繰り返し行われるわけです。この活動には一定のパターン、つまり法則性が存在するといえます。

ところで、桜の活動にこのような周期的法則性があるのはなぜでしょうか?この法則性を説明するやり方はいろいろあります。例えば「低温時間と気温の上昇、休眠ホルモンとの関係から…」などと科学的な観点から説明することもできます。一方、桜が咲くのは「花の精」つまり花を咲かせる神様が来たからだ、という説明も可能です。花を咲かせる神様の名前も、日本神話のサホヒメとかローマ神話のフローラとか、宗教や文化ごとにいろいろ異なります。つまり、同じ法則性を見てもそれに対する認識は様々に異なりうるわけですね。もちろん、どの認識が現実と正確に一致するかという点では、認識のありかたの間に優劣が存在します。例えば、通常であれば春に咲く花がまれに冬の間に咲くという現象(狂い咲き)があります。これを花の神様から説明しようとすると「神様が季節を間違えて来てしまった」ぐらいしか言いようがないのですが、科学的な学問の立場からは「休眠ホルモンが足りなかったのに加えて、冬の間に何日か小春日和が続いたから」ともっと正確な説明をすることが可能です。

「法則」と「法則性」の話に戻ると、同じ「法則性」があってもそれに対する認識つまり「法則」は人によって異なることがあるのです。もし「法則」と「法則性」が同じものだとすると、現実に「法則」は一つしかないはずなのに全く異なる複数の「法則」を信じる人がいるのはなぜなのかを説明することができません。

例えば太陽の運行について考えてみましょう。太陽が東から昇って西へ沈むという現象は、今から何千年も前に生きた人たちも現代の私たちと同じように見ていました。この太陽の動きは毎日繰り返すもので、法則性のある運動ということができます。この太陽の動きを見て、大昔のある人は自分たちの住んでいる地上の周りを太陽が回っていると考えました。別のある人は、多くの天体観測を行った結果、地上のほうが太陽の周りを回っているのではないかと考えました。後の時代に前者は天動説と呼ばれ、後者は地動説と呼ばれました。天動説を支持する人も地動説を支持する人も同じ太陽の動きを見ているはずなのに、どうして異なった「法則」を信じるようになったのでしょうか?このことは、現実に「法則」は一つしかなくて同じ「法則」を見たら誰もが同じ認識を持つに違いないという立場からは説明できません。ここにおいて、現実の中に存在する「法則性」とそれに対する認識である「法則」を区別するべき理由があるわけです。

なるほど、そういうことでしたか。でも、「法則」と「法則性」は言葉が似ていることもあって一見区別しづらいですね。

たしかに。例えでいうと、「法則性」は木、「法則」は木の影と考えるとわかりやすいかもしれません。東に太陽があるときと西に太陽があるときとでは(木が完全な左右対称でないかぎり)できる影の形は異なります。つまり、現実にある木は1本でも、その影は光の当て方によって様々な形がありえます。ある条件における木の影の形は、木のありかたの一側面を反映しているのです。

しかし、木とその影を同一のものだと考えると、影の形の数だけ複数の木が存在するということになってしまいます。朝にできる影と夕方にできる影とが異なることから朝の木と夕方の木は全く別の物だと考えたとしたら、それは明らかに誤りです。

科学の真理はいつでも条件つき

引用b(再掲)

科学知識は変更を余儀なくされるものである
 科学は,知識を生み出すための過程である。この過程は,現象についての慎重な観察と観察から有意味な理論を作り上げるという双方の活動に依存している。新たな観察によって優勢な理論に問題が生じる可能性があるため,知識は変更を避けることができない。ある理論が一連の観察についてどのように妥当な説明をしようとも,他の理論がそれと同等又はそれ以上に適合する場合もあるし,より広範な観察について説明ができる場合もあろう。科学においては,理論の新旧に関係なく追試と改良が加えられ,時には破棄されることが常に繰り返されていく。科学者は,完全かつ絶対的な真理を確実に突きとめる方法がないとしても,世界とその仕組みを説明するための,より精度の高い近似化は行うことができると考えている。[2]前掲書P.16

引用c(再掲)

科学知識は永続的なものである
 科学者は絶対的真理を獲得するという考えを否定し,自然の一部として一定の不確実性を受け容れるが,大半の科学的知識は永続的なものである。科学においては,概念を完全に否定されるよりも,それを修正される方が一般的であり,強固な構成概念は存続し,より精度を高めてより広範に受け容れられるようになる。例えば,相対性理論を構築するにあたり,アルバート・アインシュタインはニュートンによる運動の法則を破棄することはせず,むしろそれが,より一般的な概念の中で適用範囲が限定された一つの近似であるにすぎないことを示したのである。例を挙げれば,アメリカ航空宇宙局(NASA)は,衛星の軌道を計算する際にニュートン力学を用いている。さらに,科学者が自然現象に関してますます正確に予知できるようになっているという事実は,我々が世界の仕組みについての理解を真に深めつつあるということの確たる証拠となっている。継続性と安定性は,変化と同様科学の特徴であり,信頼性も暫定性と同様に科学の顕著な特徴となっているのである。[3]前掲書P.16

引用b引用cを読んで思いました。両者は互いに矛盾したことを言っていませんか?bとcを個別に見る限りではどちらも正しいことを主張しているように見えるのですが…

たしかに両者の主張は矛盾していますね。しかし、bとcは2つセットで1つの主張をしていると考えるとわかりやすいと思いますよ。つまり、ここで主張されていることをまとめるとこうなります。

科学知識は相対的な真理であり、一定の条件の外では真理でなくなる絶対的に正しい科学知識はある一定の条件の範囲内でしか成立しない

なるほど、これでスッキリしました。科学知識の正しさは条件つきということですね。

そうです。科学における真理は一面では相対的であり、別の面では絶対的です。相対的であるとともに絶対的なのですが、この相対性と絶対性を別々のものと捉えて別々に記述すると、先の矛盾した主張になるわけです。例えていうなら、コインには表と裏がありますが、だからといって「コインは表である。一方でコインは裏でもある。」と主張したら変ですよね。相対性と絶対性のような矛盾した概念をバラバラに分けて考察することも時には必要ですが、一方でこれらを統一したかたちで捉えることが必要なときもあります。

科学が扱えない研究対象はあるか?

引用d(再掲)

科学はすべての疑問に完全に答えることはできない
 科学的な手法によっては有効に調べることができないような問題も多くある。例えば,本質的に立証も反証も行えないような信念がある(超自然的な力の存在や人生の真の目的など)。また他の事例では,妥当性のある科学的手法が,一定の信念を持つ人々によって不適切として拒否される可能性もある(例えば,奇跡,占い,占星術,迷信など)。あるいはまた科学者は,時には特定の行動の引き起こしうる結果を特定し,さまざまな選択肢の考量に役立つことで一定の貢献をすることがあるとしても,善悪に関係する問題を解決する手段を持ち合わせていない。[4]前掲書P.16

引用dでは科学が扱えない研究対象について述べているのでしょうか?もしそうだとしたら、研究対象の性質によって科学的であるかどうかが決るということでしょうか?

dに対しては私も同じ疑問を持ちます。ここでは科学が扱えない対象として人間の信念を挙げていますが、必ずしもそうとは限らないと思いますね。もしある特定の信念における正しさの規準と科学における正しさの規準とが一致するならば、科学において正しいとされたことはその信念においても正しいはずです。その場合、特定の信念における諸問題は科学的研究によって真偽を確かめることができますから、条件つきではありますが人間の信念も科学の研究対象とすることができます。ここで問題となるのは特定の信念と科学との正しさの規準の違いであって、科学が扱う研究対象の種類が問題なのではありません。ここにおいて「科学における正しさとはなにか?」という問題が出てきます。これは科学論を論じるときに避けて通ることのできない問題の一つといえるでしょう。

ところで、信念も善悪も認識の一種です。もし認識一般は科学の研究対象でないとすると、人間の認識と深いつながりのあるもの、例えば言語や芸術は科学で扱えないことになります。つまり、言語学や芸術学ははじめから科学にはなりえないということになってしまいます。

そうすると、文学の科学的研究を目指す山川さんは困ったことになりますね。

そうなんです。文学は言語で作った芸術ですからね。ですから、科学において人間の認識をどう扱うかが私にとって重要な問題となります。

第4回に続く

Notes:

  1. 強調は原文ママ。以下同。

References

References
1 日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.15、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf
2, 3, 4 前掲書P.16