科学の本質的な定義とは
山川 |
『すべてのアメリカ人のための科学』第Ⅱ章第1章「科学の本質」から「科学的世界観」という見出の箇所の一部を抜粋してみます。著者が考える科学の本質的な特徴がここに述べられています。 1 |
引用a
世界は理解できる 2
科学は、体系的で注意深い研究を通して、宇宙や世界の物事と出来事は理解可能な一貫したパターンで起こることを前提としている。科学者は,知性を活用することにより,また感覚器官の延長としての道具の助けを得ることによって,自然界のすべての物事を発見できると考えている。
科学はまた,世界はその名が示すように巨大な単一のシステムであって,その中ではどこにおいても同一の基本的な法則が当てはまるということも前提としている。世界のある一部分の研究から得られた知識は,他の部分にも適用できるということである。例えば,地球表面上における落下物の運動を説明する運動と重力の法則は,月や惑星の運動も説明できる。多くの年月の中で変更は加えられているが,運動に関する同一の法則は,他の力や,最小の素粒子から最も質量の大きい星,あるいは帆船から宇宙船,弾丸から光線に至るまで、あらゆるものの運動に適用されてきた。[1]日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.15、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf
引用b
科学知識は変更を余儀なくされるものである
科学は,知識を生み出すための過程である。この過程は,現象についての慎重な観察と観察から有意味な理論を作り上げるという双方の活動に依存している。新たな観察によって優勢な理論に問題が生じる可能性があるため,知識は変更を避けることができない。ある理論が一連の観察についてどのように妥当な説明をしようとも,他の理論がそれと同等又はそれ以上に適合する場合もあるし,より広範な観察について説明ができる場合もあろう。科学においては,理論の新旧に関係なく追試と改良が加えられ,時には破棄されることが常に繰り返されていく。科学者は,完全かつ絶対的な真理を確実に突きとめる方法がないとしても,世界とその仕組みを説明するための,より精度の高い近似化は行うことができると考えている。[2]前掲書P.16
引用c
科学知識は永続的なものである
科学者は絶対的真理を獲得するという考えを否定し,自然の一部として一定の不確実性を受け容れるが,大半の科学的知識は永続的なものである。科学においては,概念を完全に否定されるよりも,それを修正される方が一般的であり,強固な構成概念は存続し,より精度を高めてより広範に受け容れられるようになる。例えば,相対性理論を構築するにあたり,アルバート・アインシュタインはニュートンによる運動の法則を破棄することはせず,むしろそれが,より一般的な概念の中で適用範囲が限定された一つの近似であるにすぎないことを示したのである。例を挙げれば,アメリカ航空宇宙局(NASA)は,衛星の軌道を計算する際にニュートン力学を用いている。さらに,科学者が自然現象に関してますます正確に予知できるようになっているという事実は,我々が世界の仕組みについての理解を真に深めつつあるということの確たる証拠となっている。継続性と安定性は,変化と同様科学の特徴であり,信頼性も暫定性と同様に科学の顕著な特徴となっているのである。[3]前掲書P.16
引用d
科学はすべての疑問に完全に答えることはできない
科学的な手法によっては有効に調べることができないような問題も多くある。例えば,本質的に立証も反証も行えないような信念がある(超自然的な力の存在や人生の真の目的など)。また他の事例では,妥当性のある科学的手法が,一定の信念を持つ人々によって不適切として拒否される可能性もある(例えば,奇跡,占い,占星術,迷信など)。あるいはまた科学者は,時には特定の行動の引き起こしうる結果を特定し,さまざまな選択肢の考量に役立つことで一定の貢献をすることがあるとしても,善悪に関係する問題を解決する手段を持ち合わせていない。[4]前掲書P.16
河山 |
これらの説明は私の科学に対するイメージと大体において一致しますね。一見すると間違っていることは言っていないように見えます。 |
山 |
そうですね。かなり注意深く読まない限り、この説明を読んで間違っていると思う人はまずいないでしょう。 |
河 |
一方で、なんとなく引っかかるところもあります。 |
山 |
それは例えばどのようなところですか? |
河 |
最も引っかかるのが、この説明では私たちの「科学とはなにか」という質問に真正面から答えていないような気がすることです。先の引用で上げられた4つの特徴は、確かに科学の重要な特徴だと思います。しかし、特徴を列挙しただけでは科学の本質的な定義にはならないのではありませんか?つまり、個々の特徴を考えられる限り多く捉えたとしても、それだけでは科学全体を十分に捉えたとは言えないと思うのです。一口に科学と言っても、研究対象や研究方法あるいは研究者によってその研究のありかたは多種多様でありうるわけですから、それらすべてのありかたをつらぬく一般的なありかたをつかまない限りは科学の本質を理解したとはいえないのではないでしょうか? |
山 |
まったくそのとおりです。私はここがこの著書の一番の問題点だと考えています。つまり、先の説明では「科学とはなにか」を本質的に定義していません。一言で言えば、これは現在行われている科学研究に見られる諸特徴を書き並べただけです。これを書いた人は科学研究に普遍的に見られる諸特徴を要領よくまとめればそれで「科学の本質」を説明したことになると考えたのかもしれませんが、実際には科学研究に見られる表面的なことがらを箇条書きにしただけにとどまっています。 「群盲象を評す」ということわざがあります。これは「凡人は大人物や大事業を一部分しか評価することができない」という意味で使われますが、もともとは目の見えない人が数人集まって象の一部分を触って感想を語り合うというインド発祥のお話から生まれたことわざです。このお話は仏教をはじめ様々な宗教で教訓として使われています 3。 象のしっぽを触った人は綱のようだと言いました。鼻を触った人は木の枝のようだと言い、腹を触った人は壁のようだと言いました。また牙を触った人はパイプのようだと言いました。これらを聞いた王様は、あなた方の言ったことは皆正しい、しかしあなた方の話が食い違っているのは各々が象の異なる部分を触っているからだ、と言いました。このお話は、真実は様々な側面を持っていること、事物の一側面だけ捉えてもその全体を捉えたことにはならないこと、などといった教訓として教えられることが多いようです。 先の「科学の本質」も、この象の話と同じことが言えるのではないでしょうか。「科学は理解できる」、「科学知識は変更を余儀なくされるものである」、たしかにそのとおりです。ここで挙げられている科学の諸特徴は、個々別々に見るならば間違ってはいません。しかしこれらの特徴をすべて合わせても「科学」を説明し尽くしたことにはなりません。それはあたかも象のしっぽや鼻、牙などの特徴をすべて足し合わせても象という動物の全体を説明したことにはならないのと同じです。「科学の本質」を考える上で大事なことは、科学の部分的な特徴、その部分だけ見るならば正しい特徴を列挙することではなく、科学という学問の全体を捉えることです。科学の本質的な定義をするということは、科学の全体を捉えることにほかなりません。 科学の諸特徴をばらばらに記述することの最大の欠点は、これが科学における実践に全く役に立ちえないことです。つまり、研究対象の観察や実験、仮説の提唱、理論の構築といった科学的研究活動に役立つ可能性がありません。というのも、この記述は研究活動の結果を現象的に捉えただけであって、研究対象から新しい認識を獲得するための実践に関する原理については何一つ言及していないからです。このような実践こそまさに科学者たちが日々行っている研究活動であって、それゆえこの研究活動の指針足りうるもののみが科学を発展させることができると言わなければなりません。 |
河 |
『すべてのアメリカ人のための科学』の著者は、冒頭で学生に習得してもらいたい能力として「科学的な考え方」を挙げていましたね。この「科学的な考え方」とは、科学者が研究活動を進める上で指針としている考え方を指すのではありませんか? |
山 |
まさにそのとおりです。ですから、この「科学の本質」を基礎にして「科学的リテラシー」教育を行っても、そこから「科学的な考え方」を学び取る学生が現れることは甚だ疑問に思われます。現象の説明的記述に終わっている「科学の本質」は、「科学的知識」を学生に教え込むには役立つかもしれませんが、一方で「科学的な考え方」を教えるにはほとんど役に立たないでしょう。これでは「科学的リテラシー」教育の目的を十分に達成することができないことは明らかです。 |
第3回に続く
Notes:
References
↑1 | 日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.15、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf |
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↑2, ↑3, ↑4 | 前掲書P.16 |