「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判―1

科学的とはどういうことかをはっきりさせないかぎり、科学的な文学研究を名乗ることはできない。
そこで、研究活動が科学と呼べるための条件を明確にするため、科学論を勉強する必要が出てくる。

この勉強の過程で私は『すべてのアメリカ人のための科学』という文書を読んだ。

これはアメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science, 略称AAAS)という団体が科学教育改革の一環として1989年に発行したものである。AAASは、科学雑誌『サイエンス(Science)』の発行元としても知られる、アメリカに本部を置く世界最大級の学術団体だ。『すべてのアメリカ人のための科学』の中には著者AAASの科学観が述べられている箇所があり、科学論を学ぶ者として興味深く読んだ。

しかし『すべてのアメリカ人のための科学』を読んで、どうしても正しいとは思われないことがいくつかあった。この著書の科学観に対する私の疑問について、これから数回に分けて書いて見たい。

今回は趣向を変えて、架空の人物である山川氏と河山氏の2人が対話するという形式で話を進める。

河山

山川さん、あなたは科学的な文学研究ができると考えているんですね。

山川

ええ、できると思いますよ。自然科学や社会科学で用いられている科学的な研究手法を文学研究に応用すれば、それは文学の科学的な研究と呼ぶことができるはずです。

でも、あなたの言う科学的とは一体どういう意味でしょうか?科学的な研究とは、実験器具を用いたり大量のデータを採取して統計にまとめたりした研究のことでしょうか?それとも、私たちが普段見たり聞いたりする出来事を詳細に観察し、これを整理してまとめることが科学的なのでしょうか?これがはっきりしないかぎり、あなたの研究が科学的なのかどうか判断することができません。

そのとおりですね。一言で「科学的」といっても、どういうものが科学的なのか人によってイメージするものが異なると思います。では、科学的とはどういうことかについてこれから一緒に考えてみましょう。

「すべてのアメリカ人のための科学」

そもそも科学とはどういうものですか?

なかなか難しい質問ですね。「科学とはなにか」について世界中の科学者のすべてが認めるような定義があるとよいのですが、残念ながら、私の知るかぎりそういうものはありません。もちろん、科学者たちの間に科学に対する共通理解がまったくないわけではないでしょう。しかし、その共通理解が全世界に通ずる科学の定義となるまで整理されていないのが現状のようです。

とはいえ、現在多くの科学者に影響を与えていると思われる科学観がないわけではありません。「科学とはなにか」という問題を考えるはじめの手がかりとして、このような科学観を検討することは十分意義があることだと私は考えています。よって、これを紹介したいと思います。

アメリカに本部を置く世界最大級の学術団体で、科学雑誌『サイエンス(Science)』の発行元としても知られる、アメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science, 略称AAAS)という団体があります。この団体が科学教育改革の一環として1989年に『すべてのアメリカ人のための科学』という文書を発行しました。 1これは、一言で言うと、アメリカの「科学リテラシー」教育の重要性と課題について述べた文書ですが、この中に「科学の本質」と第された章があり、ここに著者であるAAASの科学観が述べられています。この科学観は世界最大級の学術団体が考える「科学とはなにか」の定義とでもいうべきものでしょう。

世界的に有名な科学協会が書いた<科学の定義>ですね。

おおむねそういうものと言ってよいと思います。『すべてのアメリカ人のための科学』はアメリカ国内にとどまらず国外でも読まれているそうで、2021年現在英語版の他にスペイン語版と中国語版、日本語版が公式サイトで公開されています。 2

そうすると、この書著は世界中の科学者や科学教育者に大きな影響を与えているのでしょうね。

きっとそうだと思います。「科学とはなにか」の世界的標準とまでは言えないとしても、その影響力は現在どの科学論よりも大きいと考えられます。

この著書に表れている科学観は、「科学とはなにか」という問題を考える上で多くの重要な示唆を含んでいると私は考えています。そこで、この著書から科学の本質について書かれた部分を抜粋し、その内容を批判的に検討してみたいと思います。

「すべてのアメリカ人のための科学」の目的

まず、『すべてのアメリカ人のための科学』が書かれた意図について冒頭で次のように述べられています。

 『すべてのアメリカ人のための科学』は、科学的リテラシーに関するものである。本書は、米国科学振興協会が選任した著名な科学者と教育者のグループ「全米科学技術教育評議会」が提示した、科学的リテラシーを備えた社会の市民すべてにとって必要不可欠な理解や、思考の習慣についての一連の提言で構成されている。
 科学的リテラシーとは、科学、数学、技術に関するリテラシーを包含し、教育の中心的な目標として注目されるようになったものである。しかし、実際のところ、アメリカにおける一般的な科学的リテラシーは低いものとなっている。最近実施された数多くの研究によって、国内的標準によってもまた国際的規準からしても、アメリカの教育があまりに多くの生徒を十分に教育できておらず、したがって国の期待に沿えていないことが明確になっている。どの点から見ても、アメリカには科学、数学、技術の教育の改革以上の優先性を持つ課題はない。
 しかし、教育改革は簡単に法制化することはできない。そのためには、時間、決断、協力、財源、そして指導力が必要となる。勇気と実験も必要である。また、そのためには学校が達成すべき事柄に関する国全体の共通の未来図が必要となる。プロジェクト2061と呼ばれるAAASの活動の一環としての『すべてのアメリカ人のための科学』は、そうした未来図の形成に資することを意図するものである。[1]日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.1、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf

国民に対して科学教育が十分行われていないと嘆くのは、アメリカだけでなく日本でも同じようですね。『すべてのアメリカ人のための科学』日本語訳あとがきに次のように述べられています。

 翻って,わが国の科学教育の現状を見ると,小中学生の科学技術離れが問題とされているだけではなく,成人の科学の知識や関心が低いことも明らかにされている。受験だけを目標に得た知識は,高等学校を出るとともに,生徒たちにきれいに忘れ去られてしまう。ともすると上級学校への進学への意識が強くなりがちな教育現場において,小学生,中学生,高校生,そして,大学生,さらに,成人までを通して,何を身につけるべきかの明確なメッセージとなるものがあれば,科学教育の現場や,ひいては成人段階にいたるまで,科学技術に関する関心の喚起や科学的能力の習得によりよい影響が与えられるのではないだろうか。
 科学とは,数学とは,技術とは,という問い掛けに,そして,その教育はどうあるべきかという問い掛けに,今こそ,わが国の文化や社会を背景として,わが国の総力を挙げて答えることが求められているのではないであろうか。[2]日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』へのあとがき、前掲書P.179

ところで、ここでいわれている「科学的リテラシー」とはどういうものですか?

2ページ目に次のように書かれていますね。

『すべてのアメリカ人のための科学』は、「科学的リテラシーを備えた人物というものは、科学、数学、技術がそれぞれの長所と成約を持ち、かつ相互に依存する人間活動であるということを意識した上で、科学の主要な概念と原理を理解し、自然界に精通してその多様性と統一性の双方を認識し、個人的、社会的目的のために科学的知識と科学的な考え方を用いるような人物である。」という考えに基づいている。[3]前掲書P.2

言いたいことはなんとなくわかるのですが、同時にいくつか疑問に思うところがあります。

  • 「科学的リテラシー」を定義する前に科学とはなにかを定義する必要があるのではないでしょうか?
  • 「科学、数学、技術」と3つ並べて書いていますが、科学と数学を別ものとして分けていることに疑問を感じます。
  • 科学と技術も別のものとして分けるべきでしょうか?もし分けるべきだとしたら、両者の違いは何でしょうか?

いずれももっともな疑問ですね。これらはこの後「第Ⅱ部:全米評議会への提言」の第1
章から第3章の中で説明されますので、ここではひとまずおいておきましょう。

第2回に続く

Notes:

  1. 2005年に日本語訳版が完成。2021年現在、公式ページで日本語訳のPDFデータをダウンロードできる。以下『すべてのアメリカ人のための科学』の引用は、この日本語訳版に拠る。
  2. Science for All Americans | American Association for the Advancement of Science、2021年1月11日閲覧

References

References
1 日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』P.1、http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf
2 日本語版『すべてのアメリカ人のための科学』へのあとがき、前掲書P.179
3 前掲書P.2