「〜がある」と「〜である」の違い3

前回前々回の続き

前回は「である」の「ある」の解釈について補助動詞説、山田の存在詞説、三浦の助動詞説について確認した。

どの説が正しいのか

では、結局の所どの説が正しいのだろうか?

一見どの説にも矛盾がないように見えるが、それはどの研究者も矛盾がないように説明しようとするからであって、どの説にも矛盾がないのは当たり前である。

研究者と嘘つきを比べるのは失礼かもしれないが、嘘つきもすぐに嘘がばれないようにそれ自体は矛盾のない嘘をつく。だが、他の人の話や現実に起きた出来事と比べることで、嘘つきの嘘はバレてしまう。もちろん研究者は自ら進んで嘘をつくわけではないが、嘘と同じように、「である」の解釈だけを見てもその説が間違っているのかどうかはわからないのだ。

結論から言うと、どの学説が正しいかどうかは、「である」に適用した解釈方法をほかの言語現象にも当てはめてみるときに初めて確認できる、と私は考える。

つまり、「である」にだけしか成り立たない解釈ではダメで、ほかの語や文にも共通して適用できる解釈こそが学説として正しいといえる。そのためには、ほかの語や文にも普遍的な言語の法則性をその学説が捉えていないといけない。よって「である」を正しく解釈するためには、「である」以外の語や文も調べてみてそこに共通して成り立つ法則性を探し出す必要があるというわけだ。学者の真価はこのような研究活動によって問われるといってもよいだろう。

前回も述べたように、私は「〜である」を「〜だ」の強調表現と説明する三浦の説が最も良いと思う。一方で、補助動詞説と「存在詞」説では「〜である」と「〜だ」との関係性を正しく説明することができず、私は支持することができない。

存在詞説の欠点については三浦がすでに指摘しているので、ここでは補助動詞説の問題点を挙げてみたい。

補助動詞とは、「歩いている」の「いる」や「書いておく」の「おく」のように語の後ろに付いて前の語に意味を付加する動詞のことだ。「歩く」と「歩いている」は同じ意味ではないし、「書く」を「書いておく」とすると異なった意味になる。この「いる」や「おく」は、三浦の言葉を借りれば、客体的表現に客体のありかたを付加する表現といえる。この場合の「いる」や「おく」は補助動詞と呼べる。

しかし「本である」の「である」の場合は「ある」を付け加えることでどのような意味が加わるだろうか?

「である」の「で」が助動詞「だ」の連用形とするならば、「ある」は「だ」になんらかの意味を追加していることになる。しかし「ある」によって追加されているのは「存在」ではないことは明らかだ。「本である」の「ある」は本の客観的なありかたについて何も表現していない。とすれば、三浦の言うように、この「ある」は表現者の主観に関する表現しかありえない。つまり「である」は「だ」に表現者の主観のありかたである「肯定判断」の表現を追加したものである。

この点で「である」の「ある」は「歩いている」の「いる」と区別される。三浦の言葉を借りれば、「歩いている」の「いる」は歩くという動作の継続を表現していて、この継続は「語り手がとらえた相手のありかた」だから「いる」は客体的表現だということになろう。一方「である」の「ある」は、肯定判断「だ」に肯定判断を付加した表現で、「話し手の主観に存在するものの表現」だから「ある」は主体的表現となる。つまり、両者はまったく違う種類の表現になるわけだ。ここで「である」の「ある」を補助動詞としてしまうと、客体的表現「歩く」に客体的表現「いる」を加えた場合と、主体的表現「だ」に主体的表現「ある」を加えた場合を同列に扱うことになってしまう。 1

もちろん、「ある」が客体的表現の後ろに付くこともある。

  1. 本がおいてある
  2. 彼女には言ってある

1と2の場合は客体的表現に客体のありかたを付加する表現だから、これらの「ある」は客体的表現といえる。しかし、これを主体的表現の「ある」と混同することはできない。形式上は同じ「ある」でも両者はまったく異なった種類の表現だからだ。

まとめると、「である」の補助動詞説は、客体的表現の「ある」と主体的表現の「ある」を混同して区別できていない点で問題がある。一言でいうなら、「おいてある」の「ある」と「である」の「ある」を同じ分類の語として扱うのはおかしいのではないか、ということになる。たとえ三浦の主張、すなわち動詞は「客体的表現」であるから「主体的表現」の「ある」は動詞に分類できないという考え方を受け入れないとしても、この問題は依然として残る。「おいてある」の「ある」が指すものと「である」の「ある」が指すものとは明らかに性質が異なっているからだ。「である」の補助動詞説を主張する者はこれを正しく説明する必要がある。

アリストテレスの間違いはどこにあるか

アリストテレスの話に戻そう。

『形而上学』第5巻第7章のおかしなところは結局何だったのか。

それは、「ある」に2つの使い方があることから「存在」という概念自体に2つの意味があると結論したことだ。日本語では「存在としてのある」と「連辞としてのある」が言葉の形式上容易に区別できるから、この2つを混同することはあまりない。しかしギリシャ語(訳者の注によれば、一般に印欧語)では、「ある」を意味する語(英語ではbe動詞)の形式は、「存在としてのある」を意味する場合も「連辞としてのある」を意味する場合も同じである。なので、この両者を混同して「存在」に2つの意味があると解釈する可能性があるというわけだ。

英語で例をあげてみよう。 2

  1. He is at home.「彼は家にいる。」
  2. He is sick.「彼は病気だ。」

1のbe動詞”is”は「存在する」を意味し、2の”is”は「連辞としてのある」(日本語の「である」、つまり肯定判断)を意味する。もっとも1は”He is.”「彼はいる」としても良いのだが、日常生活ではこういう形は (“Is he at home?”「彼は家にいる?」”He is.”「いるよ」といった会話文を除いて) ほとんど使わない。いずれの場合も形式上は”is”で同じだが、”is”の意味が異なる。 3
2021/1/11 追記
例文1に”at”が抜けていたので訂正した。

要するに、言語の形式は同じであってもその意味が異なることがあるということだ。「ある」または”be”が特定の場面では「存在」を意味するからといって、他の場面でも「存在」を意味するとは限らない。「ある」という言葉と「存在」という概念を一対一対応させて固定させてしまうと、「ある」に複数の意味があると考えないで、むしろ「存在」という概念に複数の意味があると考えてしまうのだ。 4

アリストテレスは、「である」には(一)「付帯性」 5において「ある」場合と(二)「それ自体」において「ある」場合の2つがあると言うが、そうではない。「付帯的な」属性を表す文にも「それ自体」の属性を表す文にも「である」を使うことができるだけだ。

例えば、

  • ソクラテスは医者である。

という文があるとすると、「医者」はソクラテスの「それ自体」の属性だから、これは「それ自体」の「ある」といわれる。
ところで「医者」が「人間」であることは明らかだから、

  • ソクラテスは人間である。

ともいえる。このとき、ソクラテスにとって「人間」は(「医者」という属性から間接的に明らかである)「付帯的な」属性であって、これを「付帯性」の「ある」という。明らかにこれは「ある」の問題ではなくて「ソクラテス」「医者」「人間」という概念同士の関係性の問題だ。

(ここまで理解するのに私は何回も『形而上学』を読み返した。言っていることは何でもないことだが、説明がややこしい。)

まとめ

アリストテレスが言っていることだからといってそれを鵜呑みにしてはいけない。

Notes:

  1. 三浦は「である」の「ある」を補助動詞とする説に反対している。詳しくは『日本語はどういう言語か』P.150を参照。
  2. 私は英文法の専門家ではないので、もしかしたら間違いがあるかもしれない。間違いがあったら遠慮なく指摘してほしい
  3. 山田孝雄の「存在詞」はこの繋辞の性質とよく似ている。三浦は、山田の存在詞説はヨーロッパの文法論の影響を受けたものと推測している。詳しくは『日本語はどういう言語か』P.149〜151を参照。もちろんヨーロッパの文法論の考えをそのまま日本語文法に適用したからといってその解釈が日本語文法にも当てはまるとは限らない。
  4. もっとも、はじめは「存在」の意味しかなかった言葉が派生して別の意味で使われるようになることはありうる。例えば日本語の場合、時枝や三浦は判断の助動詞「ある」は「存在」の動詞「ある」から移行した表現だと見ている。詳しくは時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』P.196〜200や『日本語はどういう言語か』P.150,151を参照
  5. 詳しくは『アリストテレス 形而上学(上)』のP.316,317の注を見てほしいが、この語は様々な意味に使われていて一語で訳しにくいと訳者は述べている。簡単に言うと、「医者が患者を治した」と言うとき、医者は直接には患者を治療したのであるが、患者は人間でありまた動物でもあるので、「医者は人間を治した」とか「医者は動物を治した」とも言うことができる。このとき医者は「付帯的に」人間あるいは動物を治したという。