「〜がある」と「〜である」の違い2

前回の続き

今回は「がある」と「である」の違い、および「である」と「だ」の違いについて考えてみたい。

次の2つの文を見てほしい。

  • (1) 本がある。
  • (2) 本である。

(1)は本が存在することを意味する文で、(2)は(眼の前にあるものが)本だということを主張している文だ。この2つの「ある」の違いは何だろう?

「がある」については、格助詞「が」と存在の動詞「ある」の組み合わせという解釈が一般的だ。この点はどの研究者も意見が一致しているといっていい。

問題は「である」の解釈の方だ。

まず、私の手元にある国語辞典で「である」を調べてみよう。

で-ある ニテのつづまったデと動詞アルとが接合したもので、指定の意を表す。[1]『広辞苑 第6版』(新村出編、岩波書店、2008年)P.1898

しかし、動詞「ある」の項を見ると、そこに指定の意味は書かれていなかった[2]『広辞苑 第6版』P.100, 101。そうすると「である」という連語になったときに初めて指定の意味になるということだろうか。どうして「である」のときだけ特別に指定の意味になるのだろう?残念ながらその理由はここから読み取れない。

他の国語辞典も調べてみよう。

であ・る (連語) [断定の助動詞「だ」の連用形「で」に補助動詞「ある」の付いたもの。中世後期以降の語]体言および体言に準ずるものに広く接続するほか、活用語の連体形に助詞「の」をはさんで付く(「であろう」の形だけは活用語に直接に付く)。[3]『大辞林 第4版』(松村明編、三省堂、2019年)P.1841

出版は上と同じ三省堂だが、別の国語辞典では次のように書かれている。

で ある (連語) ①助動詞「だ」の、もとの形。[「だ」よりも文章語的でおもおもしい。なお、口語文法では、便宜(ベンギ)上、「である」は「だ」の連用形「で」+「ある」と見なす]「わがはいはねこ—」②形容動詞の連用形の語尾(ゴビ)「で」に「ある」がついた形。[4]『大きな活字の三省堂国語辞典 第7版』(見坊豪紀ほか編、三省堂、2014年)P.994

②の用法はともかく、①の用法解説が理解に苦しむ。連語が助動詞「だ」の「もとの形」とはどういうことだろうか?「である」が縮まって「だ」になったということか?「便宜(ベンギ)上」「で」+「ある」と見なすとあるが、一体どういう「便宜」だろうか?

補助動詞説

ところで、この辞典の「ある」の項によると「である」の「ある」は補助動詞に分類されるという[5]『大きな活字の三省堂国語辞典 第7版』P.47。この点は先程の国語辞典と変わらない。

つまり、三省堂の2つの国語辞典によると(2)の「ある」は補助動詞と呼ばれ、(1)の「ある」と区別されることになる。

補助動詞とは、ほかの語の後ろに付いて前の語に補助的な意味を加える動詞のことで、「ある」の他に「歩いている」の「いる」や「転んでしまう」の「しまう」などが挙げられる。補助動詞は動詞の一種だが、本来の動詞とは異なった意味で使われる点で本来の動詞と区別される、というわけだ。

ところで、(2)の「ある」が補助動詞であるならば、この「ある」を動詞に分類する根拠はなんだろうか?

(1)の「ある」が動詞でありこれと同じ形をしているから(2)の「ある」も動詞だ、という主張は通らない。世の中には見た目はそっくりだが中身はまったく違うものが存在するからだ。例えば、服につける飾りや仏壇の供え物として使われる造花は、本物の花そっくりに作られているけれども中身は紙やプラスチックだ。(1)と(2)の「ある」についても同様に、見た目が同じだからといって中身も同じだとは限らない。(1)の「ある」と(2)の「ある」は意味するものがまったく異なるのに、両者を同じ動詞に分類してよいのだろうか?

この問題については後でまた取り上げる。

「存在詞」説

補助動詞説では(2)の「ある」は動詞「ある」の派生的な用法だと主張するが、(1)と(2)の「ある」は普通の動詞でないとする説もある。

国語学者山田孝雄 1は「ある」を「存在詞」と呼んで、他の動詞と区別した。というのも、「ある」は単に「存在する」ということを述べる抽象的な言葉であり、また(2)のように使うと存在という意味も消えて「判断」(山田は「陳述の力」と呼んでいる)の意味しかなくなるからだ、という。その意味で「ある」は単純に「動詞」に区分できない特別な言葉だというわけだ。

一見アリストテレスの考え方と似ているかもしれない。しかし、存在詞説では(1)の「ある」は「存在」+「判断」の意味だが(2)の「ある」は「判断」の意味しかないと説明している点が異なっている。つまり、(2)では(1)から「存在」という意味が抜け落ちたというのだが、どうして「ある」の場合だけ「判断」という意味が含まれているのかという疑問が残る。「ある」に「判断」の意味が含まれているなら、「歩く」や「転ぶ」にも「判断」の意味が含まれていても良さそうだ。少くとも「判断」の意味が動詞に含まれているかどうかは見た目からはわからない。 2

助動詞説

もう一つ別の説を紹介しよう。

言語学者の三浦つとむ 3は、山田の存在詞説に対して次のように批判する。(強調は本文のまま)

 (1) 4の「ある」は、有の意味で、普通これを<動詞>として扱います。ところが、山田孝雄氏は、これを<存在詞>と呼んで、普通の<動詞>から区別しました。その理由は、この語がきわめて抽象的で、単に存在するということをのべるにすぎないし、また(2) 5のような表現さえ行われている、というところにあります。たしかにこの語はきわめて抽象的ですが、抽象の程度いかんは語の分類の基準になり得ないものですし、また(1)と(2)とを同視することも不当だといわなければなりません。「ある」そのものを特殊な語として考えるのではなく、(1)は語り手がとらえた相手のありかたの表現ですから<動詞>として扱うのが当然で、これに対して(2)はこの言葉の話し手の主観に存在するものの表現であって、話し手の判断そのものを直接に示す語ですから、<助動詞>として扱わなければならないのです。「ある」には<動詞>と<助動詞>と性格の対立した二種類があって、「本である」というときは語り手の肯定判断が「で」「ある」と二重に使われているから、「本だ」「本です」という場合にくらべてヨリ強められていると受けとるのが、文法的に正しい理解です。[6]『日本語はどういう言語か』(三浦つとむ、講談社学術文庫、1976年) P.25

なぜ日本語では「人間である」も「人間だ」もほぼ同じ意味になるのか、という謎の答えはここで明らかだ。

つまり、「人間である」というときは語り手の肯定判断が「で」「ある」と二重に使われているから、「人間だ」という場合よりも強められているというわけだ。よって、「人間である」と「人間だ」はほぼ同じ意味だが、「である」を使ったほうが「だ」よりも肯定判断を強めた表現になる。「である」は「だ」の強調表現だからこそ「だ」よりも重々しい感じがするわけだ。

『形而上学』の訳者の出隆が指摘できていなかったのはこの点である。

ところで、三浦の説明のうち、「語り手がとらえた相手のありかたの表現」と「話し手の主観に存在するものの表現」が少し分かりづらいかもしれない。実は、これらは三浦の言語学の核心ともいうべき重要な考え方を表している。

三浦は「語り手がとらえた相手のありかたの表現」を客体的表現と呼び、「話し手の主観に存在するものの表現」を主体的表現と呼んで、言語はこの2つの組み合わせで構成されると主張する。(誤解のないように付け加えると、三浦のこの考え方は国語学者の時枝誠記 6から継承したものであり、彼のオリジナルの考えというわけではない。) 7

三浦は次のように説明している。

 いま、一切の語を、語形や機能などではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように2つの種類に分けられることがわかります。
  一、客体的表現
  二、主体的表現
 一は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など、<感動詞>といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの<助動詞>、「……ね」「……なあ」などの<助詞>、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。ここに表現されているのは、古い認識論でいわれている意味での概念ではありませんが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられるという意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう。[7]『日本語はどういう言語か』P.77

この三浦の説にちょっと戸惑う人もいるかもしれない。三浦の言語学は私たちが学校教育で習う学校文法とは異なった考え方に立っているからだ。言語学の話に「認識論」というものが登場するのも不思議に思うかもしれない。

もし三浦つとむの言語学について疑問を持った・もっと知りたいと思ったなら、ぜひ『日本語はどういう言語か』を読んでみてほしい。説明と具体例がわかりやすくて、言語学についてまったく知らなくてもスラスラと読めるおすすめの本だ。 8

まとめ

ここまで、「である」の「ある」の解釈について補助動詞説、山田の存在詞説、三浦の助動詞説 9について見てきた。

私の考えでは、「〜である」を「〜だ」の強調表現と説明する三浦の説が最も合理的な説だと思う。

だが、補助動詞説や存在詞説でも不都合はないのではないか、「である」の「ある」を矛盾なく説明できるではないかと考える人もいると思う。たしかに「である」の解釈に関する限りではそのとおりだ。

次回は補助動詞説、存在詞説、助動詞説のいずれを正しいとすればよいのかについて考えてみよう。

最後に「がある」と「である」の違いについて私の考えをまとめておこう。

  • 「〜がある」の「ある」は「存在」を意味する動詞
  • 「〜である」の「ある」は「肯定判断」を意味する助動詞
  • 「〜である」は語り手・書き手の肯定判断が「で」と「ある」によって二重に使われているため、「〜だ」よりも肯定判断が強調されている

Notes:

  1. 1875-1958。国語・国文学者。主著『日本文法論』『日本文法学概論』『万葉集講義』など。
  2. 後に紹介する時枝誠記と三浦つとむは、動詞の中に「判断」の意味が含まれるとは考えなかった。彼らはこの「判断」は話し手・書き手の認識としては存在しても言語形式としては現れていないと解釈した。詳しくは時枝誠記の著作や三浦つとむ『日本語はどういう言語か』第1部第3章2「時枝誠記氏の「風呂敷型統一形式」と「零記号」」を参照。
  3. 1911-89。専門は社会科学、言語論、芸術論。独学で社会科学を中心に研究を進める。主著に『日本語はどういう言語か』『弁証法はどういう科学か』『認識と言語の理論』『認識と芸術の理論』など
  4. 「本がある」、引用者注
  5. 「本である」、引用者注
  6. 1900-67。国語学者。ヨーロッパの言語学に依拠した明治以降の国語学に抗して独自の考察を深め、「時枝文法」と称される体系を築いた。主著に『国語学史』、『国語学原論』、『日本文法 口語篇』、『日本文法 文語篇—上代・中古』など 。
  7. 時枝は客体的表現を「詞」、主体的表現を「辞」と呼んだ。ただし、三浦が時枝の学説を批判している部分もあり、両者の説は必ずしも同じではない。詳しくは『日本語はどういう言語か』など三浦の著書を参照。
  8. このように書くと私が「三浦信者」であるように思われるかもしれないが、決してそうではない。私は三浦言語学には学ぶべきところが多いと考えているが、しかしその有効性は実際の言語研究や文学研究に三浦の学説を応用する中で確認されなければならない。つまり、三浦の説をただ鵜呑みにするのではなく、それを現実の研究に役立たせる武器として使いながらその有効性を確かめ、必要であればそれを改良していくという態度こそが重要だと私は考える。
  9. 時枝も助動詞説をとっており、「である」は肯定判断が二重になったものと見る点も三浦と同じである。時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』(講談社学術文庫、2020年)P.196〜200。むしろ三浦の助動詞説は時枝から影響を受けた可能性がある。

References

References
1 『広辞苑 第6版』(新村出編、岩波書店、2008年)P.1898
2 『広辞苑 第6版』P.100, 101
3 『大辞林 第4版』(松村明編、三省堂、2019年)P.1841
4 『大きな活字の三省堂国語辞典 第7版』(見坊豪紀ほか編、三省堂、2014年)P.994
5 『大きな活字の三省堂国語辞典 第7版』P.47
6 『日本語はどういう言語か』(三浦つとむ、講談社学術文庫、1976年) P.25
7 『日本語はどういう言語か』P.77