言語表現の過程的構造について(14)

前回は文学入門書『詩のトリセツ』(小林真大著、五月書房、2021年)を取り上げ、ここに現れている形式主義的な言語観の問題点を具体的に批判した。

著者の小林氏が陥っている言語観の特徴は「言語の受け手側だけを見て送り手側を無視している」ことであった。彼の「イメージ」論では言葉から受け手側の「イメージ」が直接喚起されるとしているが、これは言語の送り手側の存在をはじめから無視していることにより必然的にそのように説明するほかないのである。

また、言葉から「イメージ」が直接喚起されるとすれば、必然的に言語形式が異なれば喚起される「イメージ」も異なってくると結論せざるをえない。このような考え方を背景に小林氏は「コロケーション」論を展開し、非日常的な「イメージ」を伝えたい場合は私たちが日常的に使っている・使い古された「コロケーション」では不十分で、語と語の「新しい結びつきの創造」が必要だと主張した。今回はこの「コロケーション」論の続きになる。

前回小林氏は「詩人が使うコロケーションの特徴」について「詩人は(中略)新しい言葉の融合を生み出すことで、そこに新しい意味を発見しようと試みるのです。」と述べた。このような「新しい言葉の融合」から「新しい意味」が生れるという考えは、映画における「モンタージュ」という手法とよく似ている、と彼は主張する。彼はこれを肯定的に評価するだけに留まらず、これを無批判に詩の理論へ持ち込もうとしている。

 実のところ、二つの異質なものを組み合わせることで、新しいイメージを生みだす仕組みは、映画の世界でもよく使われている、「モンタージュ」という手法とよく似ていると言えるかもしれません。モンタージュとは、撮影した複数のカットを組み合わせてつなぎ、一つの作品にまとめる技法のことを指しています。[1]小林真大『詩のトリセツ』(五月書房、2021年)「第3章 詩のイメージ」位置No.1,266(以下Kindleの位置No.で引用箇所を示す)。強調は原文ママ。

 こうしたメカニズムは、詩というジャンルにおいても同じであると言えるでしょう。二つの異質な言葉が重ね合わせられることで、そこにまったく新しいイメージが浮かびあがることになるのです。このように、詩における言葉の結びつきを分析することは、「定型的な表現と文芸作品などに見られる創造的な表現との相違をとらえる」うえで、きわめて有効な手法であると言えるでしょう。[2]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1282

かつてソ連の映画制作者が提出したモンタージュ論という映画論をご存じの方は、小林氏の「二つの異質な言葉が重ね合わせられることで、そこにまったく新しいイメージが浮かびあがることになるのです」という考えがモンタージュ論と本質的に同じであることに気づかれると思う。

このモンタージュ論は多くの映画製作者や芸術理論家によって様々に批評され、肯定的な評価だけでなく厳しい批判も少なからず受けている。モンタージュ論に対しては否定的な意見も少なくないのだから、その内容について吟味せずこれをそのまま文学理論へ持ち込むのは危険であろう。この理論を文学理論へ応用するのは、これが一体どのような理論でどのような点に問題があったのかについて理解した後でも遅くはないはずだ。

モンタージュ論とは

モンタージュ論は、1920年代のソ連の映画界から生れた映画論である。現在ではあまり知られていないかもしれないが、1930年頃日本にこの理論が紹介されたときは、映画だけでなくあらゆる芸術の基礎理論となりうる画期的な理論としてもてはやされたこともあった注1『認識と芸術の理論』(勁草書房、1970年)の中で三浦つとむは、モンタージュ論に対して日本人が大きな関心を寄せた理由の一つとして、「この理論が日本文化をとりあげ歌舞伎や俳句など日本の芸術をモンタアジュとしてとらえて、高い評価を与えたという特殊な事情をあげなければならない」(P.228)と述べている。
(三浦は熱心な映画愛好家であり、モンタージュ論が日本に紹介された当時の様子を自身の目で見て知っている映画ファンの一人であった)

モンタージュ論に影響を受けた当時の日本の文化人の一例として、物理学者・随筆家の寺田寅彦(1878-1935)を挙げることができよう。寺田は映画のモンタージュ論に刺激を受け、俳諧におけるモンタージュについても論じている注2「私はかつて『思想』や『渋柿』誌上で俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常に類似したものであるということを指摘したことがある。その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。おそらく彼は本当の連句については何事もしらないからであろう。」(「映画芸術」、引用は『寺田寅彦全集第8巻』(1997年、岩波書店)P.238より)
「映画の一つのショットは音楽の一つの楽音に比べるよりもむしろ一つの旋律に譬えらるべきものである。それがモンタージュによって互いに対立させられる関係は一種の対位法的関係である。前のショットの中の各要素と次のショットの各要素との体位的結合によってそこに複雑な合成効果を生ずるのである。連句の場合でもまさにその通りで前句と附句とは心象の連鎖のコントラプンクトとしてのみその存在価値を有するものである。」(「映画芸術」、引用は前掲書P.240,241より)
注3「近頃映画芸術の理論で云うところのモンタージュはやはり取合せの芸術である。二つのものを衝き合わせることによって、二つのおのおのとはちがった全く別ないわゆる陪音あるいは結合音ともいうべきものを発生する。これが映画の要訣であると同時にまた俳諧の要訣でなければならない。」(「俳諧の本質的概論」、引用は『寺田寅彦全集第12巻』(1997年、岩波書店)P.95より)

モンタージュ論がどのように生れたのかについては三浦つとむが簡潔な解説をしているので、それを引用しよう。注4モンタージュ論に対する三浦の解説と批判については『認識と芸術の理論』(勁草書房、1970年)所収「モンタアジュ論は逆立ち論であった」に詳しい。興味のある方はそちらを参照いただきたい。また、モンタージュ論に関するエイゼンシュテイン自身の論文については、『エイゼンシュテイン全集第6巻』(キネマ旬報社、1980年)および同第7巻(キネマ旬報社、1981年)で読むことができる。

一九二〇年ごろのソ連は、国外からの帝国主義諸国の武力干渉と、国内での反革命軍の活動とによって、経済的にも非常に窮迫していた。映画の制作は革命前から行われていたのだが、フィルム工場を建設したのは第一次五カ年計画に入ってからのことであって、それまでは生フィルムをすべて輸入(アメリカのイーストマン製品)にたよっていたから、このころになると輸入した生フィルムのストックはもはや皆無に近くなっていた。そして映画作家たちは、やむなく撮影ずみの古いフィルムの断片を「材料」に使ってさまざまな実験を行うという、異常な状態に追いやられていた。そしてこの異常な状態における実験の中で、クレショフ注5レフ・クレショフ(1899-1970)ソ連の映画監督(引用者注)やプドフキン注6フセヴォロド・プドフキン(1893-1953)ソ連の映画監督。代表作に『母』『アジアの嵐』など(引用者注)がモンタアジュ現象を「発見」したのである。エイゼンシュテイン注7セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)ソ連の映画監督。映画創作の理論として「モンタージュ論」を提出。代表作に『戦艦ポチョムキン』『アレクサンドル・ネフスキー』『イワン雷帝』など(引用者注)の一九三九年の論文は、この「発見」をつぎのように語っている注8三浦が引用している文章について補足する。
この文章はエイゼンシュテイン著『モンタージュ1938年』からの引用と思われる。『エイゼンシュテイン全集第7巻』(キネマ旬報社、1981年)によると、この論文は1938年3月から5月にかけて執筆され、ソ連・ロシアの映画雑誌『イスクストゥヴォ・キノ(Iskusstvo Kino)』の1939年1月号に発表されたという。日本では、1940年に袋一平訳の『エイゼンシュタイン映畫論』(第一芸文社)の中に『モンタージュ1939年』という名で収録された。他、レフ・クレショフ著・袋一平訳『映画製作法講座Ⅱ』(早川書房、1955年)にも同じ論文がクレショフにより引用されている。袋訳のタイトルが『モンタージュ1939年』となっている理由については、『エイゼンシュテイン全集第7巻』の「解説」は「なぜ「1938年」でなく「1939年」なのかは不明」(『エイゼンシュテイン全集第7巻』P.375)としている。
引用者が確認したところ、前掲の『映画製作法講座Ⅱ』P.156に三浦が引用している文章とほぼ同じ箇所(いくつかのわずかな文言の相違はあるものの)があった。
以上から、三浦は袋訳『モンタージュ1939年』から引用した可能性が高いと思われる。彼はこの論文の発表年あるいはタイトルから「エイゼンシュテインの一九三九年の論文」と紹介したのではないか、と推測される(引用者注)

「フィルム断片をいじくりまわしている間に、その連中は長年自分たちを驚かせたある性質を発見した。その性質というのは、つまり相隣りして置かれた二つの断片が、そういう対置から新しい性質のものとして発生する一つの新しい観念に、まちがいなく結合されるというところに存するものであった。」

 つまり、フィルム断片そのものに一つの「新しい観念」を「発生」させる性質があると知って、びっくりしたというわけである。[3]三浦つとむ『認識と芸術の理論』(勁草書房、1970年)所収「モンタアジュ論は逆立ち論であった」P.233、強調は原文ママ。

クレショフとプドフキンが行った実験について、プドフキンがその内容を記している。概要は次のとおりである。注9参考:V.Pudovkin, The Naturshchik instead of the Actor, 1929. 筆者は以下の英訳を参照した。VSEVOLOD PUDOVKIN selected essays, Transleted By Richard Taylor & Evgeni Filippov, Oxford: Seagull Books, 2006, P.160. 「The Naturshchik…」の日本語訳も探したが、残念ながら筆者は見つけることができなかった。

まず彼らは、ある映画からロシアの有名な男性俳優が大きく写ったフィルムの断片を取ってきた。彼らは、静かで何の感情も表していない表情のクロースアップを意図的に選んだ。この断片を他の映画から取ってきた断片に加えて、三つの異った組合せを作った。第一の組合せでは、俳優のクロースアップの次にテーブルの上のスープの皿を続けた。第二の組合せでは、俳優の顔は亡くなった女性の横たわっている棺を表したフィルム断片に加えられた。第三の組合せでは、おもちゃの熊と遊んでいる少女の場面の次に俳優のクロースアップが続けられた。

この三つの組合せを、その秘密を知らない観客に見せたとき、結果は驚くべきものだった。観客は俳優の洗練された演技を絶賛した。彼らは忘れられたスープに対する重苦しい憂鬱な気分を感じ取った。彼らは亡くなった女性をじっと眺めている深い悲しみに感動し、遊んでいる少女を見ている軽い幸福な微笑を賞賛した。

この実験結果だけを見れば、これは異なる二つのフィルム断片を組合せたときに不思議な効果が生じるという「新発見」にも見えるかもしれない。しかし、私たちが日常的に見ている映画は単なるフィルム断片の連続ではなく、脚本という一本のストーリーによって貫かれている・脈絡のある断片の連続である。それを考えると、異なる二つの映画から脈絡のないフィルム断片を取ってくるというこの実験自体が一般的な映画のありかたからかけ離れていないか、という疑問が当然出てくる。

三浦も以下で指摘しているとおり、この実験は映画のありかたとしては異常なもので、決して一般的な映画のありかたではない。もしこの実験結果から映画の一般的な性質を短絡的に引き出そうとするならば、特殊な条件での映画のありかたを一般的な条件におけるありかたにまで不当に拡大するという誤りへ陥ることになるだろう。

 これに似た実験は、つぎのようなかたちでもできる。われわれが何十軒もの住宅から、その居間と便所と浴室とを別々に撮影してたくさんのフィルム断片をつくりあげる。そしてそれらの中から手さぐりで一本づつをとりあげて、組み合せて観客に見せるなら、「その秘密を知らない」観客は一軒の家の居間と便所と浴室とを見たと思うにちがいない。この種の特殊な映画のありかたとそれに対する観客の反応とを、映画の一般的なありかたにまで拡大すると、「制作する時すでに歴史の持つ大衆性に、カットカットの連続をゆだねて制作されている」のが映画の本質であり、「カットとカットを連続するのは、見る大衆のこころなのである」という、中井正一注10中井正一(1900-1952)日本の美学者・哲学者(引用者注)の映画論にまでつっ走ることになるのである。[4]前掲書P.234。強調は原文ママ。

 たとえ映画の作者が統一のある世界像を準備していずに、どこからか見つけて来たフィルム断片を恣意的につないで観客に見せたとしても、「その秘密を知らない」観客はそれを正常な映画製作の過程をとったものと同じように受けとるであろう。自分の頭の中に客観的な連関のある一つの世界をつくりあげて、作者の世界を正しく追体験したものと思いこむであろう。これは映画鑑賞の習慣がもたらす錯覚でしかないが、フィルム断片をつないで見せられるとそこから「一つの新しい観念」が成立するという点では、正常の追体験と同じである。それゆえ、モンタアジュ現象の「発見」なるものは、錯覚と正常の追体験とをいっしょくたにしたばかりか、錯覚の場合にはフィルム断片の背後に作者の世界が存在していないところから、観客の観念の成立をフィルム断片の結合そのものから説明するという、いわば物神崇拝的な性格をも持っていたのであった。[5]前掲書P.235、236。強調は原文ママ。

モンタージュ現象の「発見者」たちは、映画鑑賞における観客の正常な追体験と錯覚とを正しく区別することができなかっただけでなく、彼らはこの「モンタージュ」こそが映画の基礎であると主張し始めた。これがモンタージュ論である。

一九二〇年代から三〇年代のはじめにかけて、モンタアジュ論は映画のみならずあらゆる芸術についての根本理論として君臨しました。

「映画の基礎はモンタアジュである。」「詩人や作家にとって、個々の単語はいわば生のままの原料である。それは実に雑多な意味を持ち得るものであって、文章に組み立てて初めて一定の意味がきまる。」「映画監督にとって、できあがったフィルムのそれぞれの画面は、ちょうど単語が詩人にとってあるのと同じ関係である。彼はフィルムの画面の前に立って、いろいろと首をひねって芸術的な組み立てを考える。そして初めて『モンタアジュの文章』ともいうべき一つのセンテンスができあがったのである。」「ここに、作家が、一つの語、たとえば『白樺』という字を用いるとする。この語は、いわばある一定の対象の記号を示している。しかし何等の精神的な内容を持っていない。この言葉は多くの言葉と結びつき、もっと複雑な形をとったときに、初めて芸術的な生命と現実性とを獲得するのである。」(フセオロード・プドフキン)
「プドフキンは、モンタアジュを、断片の連鎖として主張した。鎖として、『煉瓦』というかたちで。多くの系列によって思想を説明する丶丶丶丶ところの『煉瓦』として。私は、衝突としてのモンタアジュという自分の見地に立って彼と対立した。そこでは二つの与えられた物件の衝突から思想が発生する丶丶丶丶という見地に立って。」(セルゲイ・ミハイロウィチ・エイゼンシュテイン)

[6]三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.32、33

プドフキンは、個々の単語の「組み立て」によって一つの文章が作られるように、映画もフィルムの各画面を「組み立て」ることで作られると考えた。それはあたかも煉瓦を一つずつつみ重ねて家や塀を作る作業にたとえられるだろう。これに対してエイゼンシュテインは、「衝突としてのモンタアジュ」を主張した。つまり、フィルム断片の「衝突」によって思想が発生する、と考えたのである。

ところで、プドフキンは個々の単語の「組み立て」によって文章が作られると述べているが、この考え方は果して正しいだろうか?彼は、詩人や作家が作品を書くときに使う単語を「いわば生のままの原料である」と言っている。もしこの「原料」を文章として「組み立て」ることによって初めてその文章の意味が決まるのだとしたら、個々の「原料」はたしかに「何等の精神的な内容を持っていない」ものに違いない。

だが、ちょっと待ってほしい。このような考えかた、すなわち言語の「原料」を使って人々は思想伝達を行っているという考えを、私たちはどこかで聞いたことはないだろうか。

第10回をお読みの方はおわかりのとおり、この考えは「言語道具説」と同じである。「言語道具説」とは<人々の頭の中に「言語」または「言語の材料」が存在し、話し手・書き手はそれを思想伝達の道具として使っている>という説であり、この「言語の材料」を特定のかたちに組合わせることで表現が行われるとした。

しかし、現実の言語活動においては同じかたちの「言語の材料」を使っている一方で表現対象は異なる場合もある。そのため、表現対象から与えられた具体的な認識と、「言語の材料」とがどのように結びついて表現が行われるのかが問題となる。だが、「言語道具説」は話し手・書き手のとらえた認識の対象をはじめから無視しているため、この点について何も説明することができない。ここに「言語道具説」の大きな問題点がある。

第10回でも指摘したとおり「言語道具説」のいう「言語」とは実際は言語規範のことであった。そしてこの言語規範を記載した書物が辞書にほかならない。

ところで、第9回に述べたとおり、辞書には普段私たちが使っている言葉と同じかたちの文字が並んでいることから「辞書の中には言葉がある」という解釈も生れ、この解釈を支持する人も少なくない。しかし、私たちは言葉を話したり書いたりするときに辞書を参考にすることはあっても、実際に辞書のページから文字を切り取ってくる人はいない。辞書に載っているのは「言語」そのものではなくて言語表現に必要な規範(言語規範)なのである。

「言語」と言語規範とを同一視している「言語道具説」も、「辞書の中には言葉がある」という解釈も、実は根っこの部分は同じである。

 個々の単語が「辞書の中からとり出してきたはなればなれの言葉」であり、「何等の精神的な内容を持っていない」ものだとする言語観、これは正しいでしょうか? われわれはたしかに辞書を使いますが、文字通り単語を「中からとり出して」くる人間、いいかえれば辞書のページから文字をきりぬいてくる人間はいないのです。「中からとり出して」というのは単なるたとえ話でしかないのです。しかし、映画の画面は、これとちがって、文字通り個々の画面として作家の前に与えられるのです。モンタアジュ論は、このように、出発点においてすでにまちがった考えかたの上に立っており、それは最後まで訂正されなかったのです。[7]前掲書P.33

モンタージュ論から何を学ぶか

モンタージュ論ははじめ多くの映画製作者たちに受け入れられたものの、次第にこの理論を批判し排斥する人が増え始めた。この理論に沿って映画を制作してみると、どうしても現実の映画のありかたと食い違うところが出てくることに気づいたからである。

 モンタアジュ論にしたがって実際に映画をつくってみたソ連の作家たちは、その経験の中で、この理論が事実とくいちがい、映画のありかたを正しく説明したものでもなければ、創作上の正しい指針ともなり得ないということを知って、支持から排撃へと変っていきました。[8]前掲書P.33

こうしてエイゼンシュテインは多くの映画製作者からの批判を受けて自身の理論を訂正する必要に迫られた。この批判に答えるかたちで執筆された論文の冒頭で、エイゼンシュタインは当時の状況を以下のように記している。

 映画のなかでモンタージュが「すべて」と高くうたわれた時期があった。今はモンタージュが「何ものでもない」と見なされている終末期の時期である。私たちはそのどちらにもくみしない。そしてモンタージュも、その他すべての映画を構成する要素と同じく、映画に不可欠の構成分子と考えている。「モンタージュ支持」の嵐と「反モンタージュ」の襲撃が終わったところで、私たちは再び率直にこの問題に立ちかえなければならない。それが必要なのは、モンタージュ「否定」の時代には、モンタージュの決して非難されるいわれのない、最も確固とした一面さえ破壊されたからである。そして最近の一連の映画人たちは、モンタージュをすっかり「清算」し、その基本的な目的と役割さえも忘れてしまっているからだ。[9]S.エイゼンシュテイン 『モンタージュ1938年』 引用は『エイゼンシュテイン全集第7巻』(キネマ旬報社、1981年)P.256より。

モンタージュ論が過去のものとして映画製作者たちから忘れ去られつつある中、エイゼンシュテインは1939年1月に論文『モンタージュ1938年』を発表した。しかし、残念ながら、そこに現れた自身の理論に対する反省は不十分なものであった。彼は自身の理論に対して部分的な訂正を行ったものの、<フィルム断片の組合せから観念が発生する>というモンタージュ論の根本的な部分を反省するところまでにはいたらなかった。

 これまでのべたようなモンタアジュ論者の考えかたからすれば、「本がある」と「本である」とのちがいは「が」と「で」とのちがいだ、ということになってしまいます。このちがいが、全体の思想的なちがいをもたらした、ということになってしまいます。一応もっともらしくきこえるモンタアジュ論が、見かけにとらわれたまちがった理論であることは、この一例でもよくおわかりになるでしょう。モンタアジュ論者自身も、多くの映画作家から非難を受けて、まちがいを訂正する方向へ向ったことは事実です。(中略)

「問題は、フィルム断片の独立性という形に、まず第一にとらわれているところにあると思われる。」「対置さるべき断片の性質自体には、分析的注意がよく行きとどかなかった。」「一つ一つのモンタアジュ断片はもはや独立的なものとしては存在せず、それら断片の全部を平均してつらぬく統一された全体のテーマのある部分的な表現として自らあらわれる。」(エイゼンシュテイン「モンタアジュ一九三九年」注11三浦は「モンタアジュ一九三九年」と記載しているが、これは袋一平訳のタイトルであり、『エイゼンシュテイン全集第7巻』(キネマ旬報社、1981年)では「モンタージュ1938年」というタイトルになっている(引用者注)

 この反省と訂正が正しいことは、「ある」の語をそれ自体絶対的な独立性においてとらえることをやめ、文全体の中で何を表現しているかを分析するとき、その二つの文のちがいが正しくつかめることでもわかります。しかしエイゼンシュテインにとっては、この反省と訂正が精一ぱいの仕事でした。ここでは単に方向が示されただけのことで、これからさきの分析において最初提出した問題のほんとうの解決があたえられるのに、彼はここで刀折れ矢つきたかたちで倒れてしまい、モンタアジュ論も姿を消してしまったのです。[10]『日本語はどういう言語か』P.34、35

これまで見てきたように、モンタージュ論が誤っていることは間違いない。しかし、だからといって誤っている理論の内容を深く吟味することなくこれを破り捨ててしまって本当によいだろうか。もし誤りを正しく反省することができれば、そこから重要な教訓を得ることもできるはずである。

三浦は、モンタージュ論が間違っているとしても、これが提出した問題の重要性まで否定するのは行き過ぎだ、と強調する。映画と言語との関係や共通点を分析していくためには、モンタージュ論を破って捨ててしまうのではなく、この理論が陥っていた誤りを正しく反省してこれを訂正することが重要だと三浦はいう。

 モンタアジュ論がまちがっていることは事実です。しかし、だからといってこれを粉砕してすててしまっていいかどうか、それは問題です。モンタアジュ論のまちがいは、言語論のまちがいにつながっていました。もしモンタアジュ論のまちがいがどこにあったかハッキリすれば、こんどは逆に、映画論を土台として言語論を訂正することもできたはずです。(中略)学者たちはモンタアジュ論のまちがいを理論的にハッキリさせようとすることなしに、ただ破いてすててしまったように思われます。モンタアジュ論がまちがっていても、モンタアジュ論者が提出した問題そのものの重要性まで否定するのはゆきすぎでしょう。映画と言語との関係を、モンタアジュ論者のように、見かけから「組み立て」としてとらえるのは不充分ですし、またここからまちがいもうまれたわけですが、だからといって映画と言語との関係やその基本的な性格としての共通点を分析することまで無意味であるということにはなりません。[11]前掲書P.34

モンタージュ論者が提出しながらも解決できなかった問題とはいったいどのようなものか。三浦は次のように説明する。

 モンタアジュ論につながっている問題のうちからここでは一つの問題だけを考えてみましょう。絵にしろ、写真にしろ、フィルムの断片にしろ、そこにはかならず作者があります。A君の描いたスケッチ、ピカソの壁画、新聞の写真班K氏のスナップ、キャメラマンS氏のニュース映画というように、作者なしにそれらの表現はありえません。これと同じことが、言語についてもいえるはずです。A君が「わたし」と書き、またB君も「わたし」と書いたとしても、それらはちがった書き手が別々にペンを持って別の言語をつくりだしたものですし、その書き手がとらえた相手もちがっています。この二つはちがった言語として扱わなければならないはずです。それにもかかわらず、この場合に「二人は同じコトバを使っている」という人がすくなくありません。(中略)
 A君の「わたし」とB君の「わたし」とが同じ面をもっていることはたしかです。誰が見ても、文字のかたちは同じに見えます。しかしこの同じに見えることや、そこに共通点のあることと、言語として同じであることや共通であることとはちがうのです。正確にいえば、ここで同じなのは音声の種類あるいは文字の種類であって、言語としてではないのです。同じ語彙に属するということと、同じ言語であるということとはちがいます。[12]前掲書P.35〜37。強調は原文ママ。

さて、ここでもう一度『詩のトリセツ』に立ち戻ってみたい。著者の小林氏は「二つの異質な言葉が重ね合わせられることで、そこにまったく新しいイメージが浮かびあがることになるのです」と主張したが、これがモンタージュ論者の言語観と同じであることは一目瞭然である。

小林氏とモンタージュ論者との共通点は、言語の背後に存在する話し手・書き手をまったく無視している点である。これにより両者は語彙と言語とを混同するという誤りに陥ってしまった。

例えば「わたしは今日公園に行った」という文を考えてみよう。この文をAさんが言ったときとBさんが言ったときでは、三浦も指摘しているとおり、「わたし」の指す対象は異る。また「今日」が具体的に西暦何年何月何日を指すのかは、先ほどの文を作ったのは誰で、いつ公園に行ったかによって異ってくる。さらに「公園」が具体的にどの公園を指すのかも、作者がどの公園を指して表現したかによって異る。

近所の子どもたちが集って遊ぶ住宅街の小さな公園も、広い運動場があって休日に大人たちが運動しに集る大きな公園も、公共施設として設けられた土地という点で共通している。その点でどちらも「公園」と呼ぶことができるが、他の側面から見ると二つはそれぞれ異る公園である。

もし語彙と言語が同じものだとすると、同じ「公園」という語彙でもそれを言ったり書いたりした人によってそれが指す対象が異ることを理論的に説明することができない。せいぜいで、語と語との組合せによってそれが指す内容は変るのだ、と主張するのが関の山である。それゆえに同じ語彙に属する異なる言葉の存在をどうしても認めなければならないわけである。

あとがき

2022年3月から書き始めたシリーズ「言語表現の過程的構造」はこれでいったん完結である。

このシリーズは、『詩のトリセツ』(小林真大著、五月書房、2021年)という文学入門書を読んだことがきっかけで書き始めた。この入門書が詩の批評理論のベースとしているのは、形式主義的な言語学だった。この言語学の持つ問題点に対してほとんど反省されることがないまま話が進められているのを読んで、筆者はある種の危機感を覚えたのである。

言語過程説の立場から見ればこの形式主義的な言語学の持つ欠点がよくわかるのだが、『詩のトリセツ』では言語過程説に対する言及は一つもない。これは『詩のトリセツ』に限ったことではなく、現在出版されている文学入門書を見渡しても、単に「言語学」といえばソシュールのラング説をベースにした形式主義的なものを指すことが多い。残念ながら、言語過程説の知名度はあまり高くないようである。

ラング説の問題点については時枝誠記がかれこれ80年以上も前に指摘しているのだが、時枝の取り上げた問題さえ現代の文学入門書の中では顧みられることはほとんどないといってよい。第1回で紹介したフランス文学研究者の鈴木覺氏は「現代言語学は、表現形式のみに目が奪われ、表現過程を無視している。」と指摘しているけれども、これは現在においても当てはまるのかもしれない。

このシリーズは、言語学者の時枝誠記から三浦つとむへと継承され発展してきた言語過程説をもっと多くの人に知ってもらうことを目的に書いた。

しかし実際にこのシリーズで解説できたのは、言語表現の過程的構造の部分のみである。実は言語過程説はもっと豊富な内容を持つ学説であり、今回解説できなかったものもまだまだある。主要なものとしては以下の二点である。

  • 語の分類として客体的表現と主体的表現とを区別したこと
  • 言語における二つの立場――主体的立場と客体的立場――について

これらも言語過程説では重要な論点なのだが、今回は頭出しをしただけで詳しく解説できなかった。このシリーズだけでは言語過程説の解説としては不十分なので、この二点についても今後解説を書きたいと思っている。

脚注

  • 注1
    『認識と芸術の理論』(勁草書房、1970年)の中で三浦つとむは、モンタージュ論に対して日本人が大きな関心を寄せた理由の一つとして、「この理論が日本文化をとりあげ歌舞伎や俳句など日本の芸術をモンタアジュとしてとらえて、高い評価を与えたという特殊な事情をあげなければならない」(P.228)と述べている。
    (三浦は熱心な映画愛好家であり、モンタージュ論が日本に紹介された当時の様子を自身の目で見て知っている映画ファンの一人であった)
  • 注2
    「私はかつて『思想』や『渋柿』誌上で俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常に類似したものであるということを指摘したことがある。その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。おそらく彼は本当の連句については何事もしらないからであろう。」(「映画芸術」、引用は『寺田寅彦全集第8巻』(1997年、岩波書店)P.238より)
    「映画の一つのショットは音楽の一つの楽音に比べるよりもむしろ一つの旋律に譬えらるべきものである。それがモンタージュによって互いに対立させられる関係は一種の対位法的関係である。前のショットの中の各要素と次のショットの各要素との体位的結合によってそこに複雑な合成効果を生ずるのである。連句の場合でもまさにその通りで前句と附句とは心象の連鎖のコントラプンクトとしてのみその存在価値を有するものである。」(「映画芸術」、引用は前掲書P.240,241より)
  • 注3
    「近頃映画芸術の理論で云うところのモンタージュはやはり取合せの芸術である。二つのものを衝き合わせることによって、二つのおのおのとはちがった全く別ないわゆる陪音あるいは結合音ともいうべきものを発生する。これが映画の要訣であると同時にまた俳諧の要訣でなければならない。」(「俳諧の本質的概論」、引用は『寺田寅彦全集第12巻』(1997年、岩波書店)P.95より)
  • 注4
    モンタージュ論に対する三浦の解説と批判については『認識と芸術の理論』(勁草書房、1970年)所収「モンタアジュ論は逆立ち論であった」に詳しい。興味のある方はそちらを参照いただきたい。また、モンタージュ論に関するエイゼンシュテイン自身の論文については、『エイゼンシュテイン全集第6巻』(キネマ旬報社、1980年)および同第7巻(キネマ旬報社、1981年)で読むことができる。
  • 注5
    レフ・クレショフ(1899-1970)ソ連の映画監督(引用者注)
  • 注6
    フセヴォロド・プドフキン(1893-1953)ソ連の映画監督。代表作に『母』『アジアの嵐』など(引用者注)
  • 注7
    セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)ソ連の映画監督。映画創作の理論として「モンタージュ論」を提出。代表作に『戦艦ポチョムキン』『アレクサンドル・ネフスキー』『イワン雷帝』など(引用者注)
  • 注8
    三浦が引用している文章について補足する。
    この文章はエイゼンシュテイン著『モンタージュ1938年』からの引用と思われる。『エイゼンシュテイン全集第7巻』(キネマ旬報社、1981年)によると、この論文は1938年3月から5月にかけて執筆され、ソ連・ロシアの映画雑誌『イスクストゥヴォ・キノ(Iskusstvo Kino)』の1939年1月号に発表されたという。日本では、1940年に袋一平訳の『エイゼンシュタイン映畫論』(第一芸文社)の中に『モンタージュ1939年』という名で収録された。他、レフ・クレショフ著・袋一平訳『映画製作法講座Ⅱ』(早川書房、1955年)にも同じ論文がクレショフにより引用されている。袋訳のタイトルが『モンタージュ1939年』となっている理由については、『エイゼンシュテイン全集第7巻』の「解説」は「なぜ「1938年」でなく「1939年」なのかは不明」(『エイゼンシュテイン全集第7巻』P.375)としている。
    引用者が確認したところ、前掲の『映画製作法講座Ⅱ』P.156に三浦が引用している文章とほぼ同じ箇所(いくつかのわずかな文言の相違はあるものの)があった。
    以上から、三浦は袋訳『モンタージュ1939年』から引用した可能性が高いと思われる。彼はこの論文の発表年あるいはタイトルから「エイゼンシュテインの一九三九年の論文」と紹介したのではないか、と推測される(引用者注)
  • 注9
    参考:V.Pudovkin, The Naturshchik instead of the Actor, 1929. 筆者は以下の英訳を参照した。VSEVOLOD PUDOVKIN selected essays, Transleted By Richard Taylor & Evgeni Filippov, Oxford: Seagull Books, 2006, P.160. 「The Naturshchik…」の日本語訳も探したが、残念ながら筆者は見つけることができなかった。
  • 注10
    中井正一(1900-1952)日本の美学者・哲学者(引用者注)
  • 注11
    三浦は「モンタアジュ一九三九年」と記載しているが、これは袋一平訳のタイトルであり、『エイゼンシュテイン全集第7巻』(キネマ旬報社、1981年)では「モンタージュ1938年」というタイトルになっている(引用者注)

References

References
1 小林真大『詩のトリセツ』(五月書房、2021年)「第3章 詩のイメージ」位置No.1,266(以下Kindleの位置No.で引用箇所を示す)。強調は原文ママ。
2 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1282
3 三浦つとむ『認識と芸術の理論』(勁草書房、1970年)所収「モンタアジュ論は逆立ち論であった」P.233、強調は原文ママ。
4 前掲書P.234。強調は原文ママ。
5 前掲書P.235、236。強調は原文ママ。
6 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.32、33
7, 8 前掲書P.33
9 S.エイゼンシュテイン 『モンタージュ1938年』 引用は『エイゼンシュテイン全集第7巻』(キネマ旬報社、1981年)P.256より。
10 『日本語はどういう言語か』P.34、35
11 前掲書P.34
12 前掲書P.35〜37。強調は原文ママ。