言語表現の過程的構造について(13)

第7回から第12回にかけて、三浦つとむの提唱した言語理論のうち言語表現の過程的構造に関する部分を紹介してきた。

これらをお読みの方にはおわかりのとおり、三浦はある意味では言語過程説の提唱者である時枝誠記の理論を徹底的に批判しているといえる。だが、別の側面では、三浦は時枝の言語過程説の積極的な面を継承するとともに、その欠点を唯物論の立場から修正していることも忘れてはならない。その意味で、三浦は時枝の言語過程説の欠点を修正し、この学説をより発展させたということができよう。

以上から、『言語過程説の研究』(リーベル出版、1999年)の著者川島正平氏と同様、筆者は三浦を言語過程説の継承者と見る立場を取る。

以下、筆者のいう「言語過程説」とは、時枝誠記によって提唱され三浦つとむによって修正・発展させられた言語理論のことを指す。この点はあらかじめご了承いただきたい。

ここまで言語過程説の(全容とまではいかないが)根幹というべき部分の解説をしてきた。この一連の記事の最後に、小林真大著『詩のトリセツ』(五月書房、2021年)を言語過程説の立場から見たときの問題点について考察してみたいと思う。

この著書に対する批判は第1回でも簡単に述べたが、今回はこの著書に見られる問題点をより深く掘り下げて取り上げてみたい。筆者が記事の執筆に費やすことのできる時間と労力に限りがある都合上、『詩のトリセツ』の内容すべてを取り上げることはできない。そのため、ここでは著者である小林氏の形式主義的な言語観の弱点が顕著に現れている点を特に取り上げ、これに対して批判を試みることにする。

『詩のトリセツ』の言語観

まずは、小林氏の批評理論の基礎となっている言語学とはどういうものだったか、あらためて確認しておこう。

彼は第2章「詩のリズム」において「言葉とは「記号表現」と「記号内容」が合わさったものであると言って良いでしょう」と言い、「記号表現」と「記号内容」を次のように説明している。

言葉は大きく二つのレベルに分けることができます。例えば、「お母さん」という言葉について考えてみましょう。「お母さん」という言葉を聞いて、私たちが思い浮かべるのは、やさしい(もしくはこわい)母親のイメージです。つまり、「お母さん」という言葉は、私たちに母親の姿を思い起こさせる機能を持っていると言えるでしょう。このように、言葉を見たり聞いたりすることで、私たちの心の中に生れる様々なイメージは、言葉の「記号内容」と呼ばれています。
 一方、「お母さん」という言葉には、母親のイメージ以外にも、「OKAASAN」という音や「お・か・あ・さ・ん」という文字も含まれていることが分かります。そもそも、こうした音声や文字がなければ、私たちは母親の姿をイメージすることができません。このように、イメージを生みだすために必要な言葉の音や文字は「記号表現」と呼ばれています。[1]小林真大『詩のトリセツ』(五月書房、2021年)「第2章 詩のリズム」位置No.321(以下Kindle版の位置No.で引用箇所を示す)。強調は原文ママ。

ソシュールのラング説をご存知の方は、「記号表現」も「記号内容」もソシュールのラング説で用いられる用語であることにすぐ気がつくだろう。ラング説では「記号表現」と「聴覚映像」、「記号内容」と「概念」はそれぞれ同じものを指す語彙とされている。これだけを見ると、小林氏の説は「ラング」を「聴覚映像」と「概念」との結合体とするソシュールの学説とぴったり一致しているように見える。

だが、たとえ同じかたちの用語を使っていても、その用語の指している中身まで同じとは限らない。念のため、小林氏の説とソシュールのラング説との間に相違点がないかどうか、両者をよく調べてみよう。

ソシュールの『一般言語学講義』において、「記号表現」あるいは「聴覚映像」という概念は、人間の頭の中に存在する記号の抽象的な表象、という意味で主に使用されている。すなわち、「記号表現(聴覚映像)」はあくまで観念的な存在であり、これは人間が実際に話したり書いたりするときの具体的な音声や文字と同一のものではない。

この「記号表現」は言語過程説でいうところの言語規範の一部であり、これは具体的・物質的な存在である音声や文字と正しく区別されなければならない。しかし、小林氏は「「OKAASAN」という音や「お・か・あ・さ・ん」という文字」を「記号表現」と呼んでいる。つまり、ラング説では人間の頭の中にある観念的な存在であったものが、彼の説では具体的な音声や文字といった物質的な存在へとスリ替えられているのである。

一方、「記号内容」の方はどうだろうか。ラング説の「記号内容」あるいは「概念」は、「記号表現(聴覚映像)」と対で「ラング」を構成する要素であり、言語を使用する人間の頭の中にある観念的な存在であるとされている。この「記号内容(概念)」は、言語の送り手(話し手・書き手)の側にも、言語の受け手(聞き手・読み手)の側にも存在し、「記号表現」を受け取った人の頭の中に言語の送り手と同じ「記号内容」が喚起される、とラング説は説明する。

ところが、小林氏のいう「記号内容」は「言葉を見たり聞いたりすることで、私たちの心の中に生まれる様々なイメージ」というのだから、言語の受け手側にしか存在しないものである。裏を返せば、彼のいう「記号内容」が指す内容には、言語の送り手の思い浮かべる「イメージ」が含まれていない。その点、彼の説では言語の送り手の存在が無視されてしまっている

以上から、小林氏の「記号表現」「記号内容」という概念についておおよそのことが理解できると思う。これらはソシュールのラング説から発想を得たものと推察されるのだが、その内容はラング説のそれと正確に一致するものではない。

小林氏のいう「記号表現」は、言語の使用者の頭の中にある記号の抽象的な形式ではなく、人間が話したり書いたりしたときの具体的な音声や文字のことであった。また、彼のいう「記号内容」は、人間の頭の中にある「記号表現」と結びついている記号の<内容>ではなく、言語の受け手が思い浮かべる「イメージ」を指していた。

両者に共通しているのは、言語の受け手側だけを見て言語の送り手側の存在を無視する考え方である。いいかえれば、言語の受け手側が見たり感じたりすることだけを扱う、という考え方である。

この考え方では、言語の表現形式だけを見てその表現過程を無視する、という誤りに陥りやすいし、たとえ陥っても自身の誤りに気づいてそれを修正することができない。筆者は第1回において、このような言語観を「形式主義的な言語観」と呼んで批判しておいた。

『詩のトリセツ』の「イメージ」論

形式主義的な言語観の問題点を言語過程説の立場から見てみよう。第1回でも取り上げた小林氏の「イメージ」論の問題をここでもう一度取り上げてみる。彼は『詩のトリセツ』の第3章『詩のイメージ』の冒頭で次のような「イメージ」の定義を行っている。

例えば、

ドラえもんはどら焼きを食べている。

 という文を読んだとき、私たちの心には「ドラえもん」の姿や、おいしそうな「どら焼き」の映像が浮かんでくることでしょう。このように、言葉によって心のなかに浮かんでくるさまざまなモノの姿を「イメージ」と呼びます。[2]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,127、強調は原文ママ

前回取り上げたときも指摘したが、ここでいう「イメージ」は『詩のトリセツ』第2章で定義した「記号内容」と同一のものである。つまり「記号」の<内容>は、言語の受け手の思い浮かべる「イメージ」とイコールというわけである。

第12回の三浦つとむの意味論をお読みになった読者ならば、この「イメージ」論が言語の受け手の認識そのものを「言語の意味」とする考え方とほぼ同じであることにすぐ気がつくであろう。前回も確認したとおり、これでは言語の意味の取り違いや誤解が存在しないことになり、小林氏の説は現実の言語のありかたと一致しない。

言語過程説では、言語表現の背後に対象→認識→表現という過程が存在すると説明する。言語の受け手は音声や文字といった表現形式からこの過程を逆にたどって、言語の送り手のとらえた対象や認識をつかんでいくのである。これが言語の理解にほかならない。

もし音声や文字の背後にある言語の表現過程を無視して、言語の受け手が表現形式から対象や認識をつかむ過程しか見なかったとしたら、表現形式から直接に対象や認識が生まれ出るかのような錯覚を起すことにもなろう。音声や文字から直接に「イメージ」が喚起されるとする小林氏の「イメージ」論は、まさにこの錯覚と同じである。

また、前回この問題を取り上げたときは、言語の送り手がとらえた具体的な「どら焼き」と、言語の形式に結びついている一般的な概念としての「どら焼き」とが区別されていない、とも指摘しておいた。言語過程説では、後者は言語規範の一部として存在する一般概念であり、前者の具体的・個別的な認識と区別される、と説明する。これは言語の送り手側の表現過程における話だから、この過程を正しくとらえないと、両者の区別は到底できるものではない。

小林氏の「イメージ」論では言語の受け手側しか見ていないのだから、「イメージ」が送り手の具体的・個別的な認識なのか、あるいは一般概念という抽象的・普遍的な認識なのかを区別できないのは、当然というほかない。

彼が形式主義的な言語観に災いされている例をもう一つ挙げよう。

第12回で言語過程説の意味論について取り上げたとき、この説では言語規範の一部として存在する一般的な概念、すなわち「意義」と、具体的に話され書かれた言語の持っている「意味」とを区別することを紹介した。三浦が指摘しているとおり、両者は別ものであり、両者の関係を言語の表現過程の中で正しく位置づけて理解することが意味論においては大切である。

裏を返せば、誤った言語観を持って意味論を取り上げれば、その言語観の欠陥が意味論の中に現れざるをえない、ともいえるだろう。ソシュールのラング説の支持者の中には「意義」が表現において具体的な認識に変化すると考える人もいる、と第12回で紹介したが、これは自身の支持する言語観に災いされて「意義」と「意味」との正しい関係をとらえ損なったものといえる。

ところで、小林氏は「言葉の意味」について以下のように述べている。

言葉の意味は、大きく分けて「表示義(デノテーション)」と「共示義(コノテーション)」という、二つのレベルで構成されています。「表示義」とは、「言葉そのものの文字通りの意味」のことを指します。例えば、「豆腐」の表示義とは「豆腐そのものの意味」のことなので、「大豆の加工食品」というのがその答えであると言えるでしょう。一方、「共示義」とは「その言葉から連想されるイメージ」です。例えば、「豆腐」という言葉を聞いて連想されるイメージは、「もろい」「白い」「うまい」といった言葉かもしれません。このように、「豆腐」という言葉から呼び起こされるさまざまなニュアンスが共示義であると言えるでしょう。[3]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,317。強調は原文ママ。

三浦の言語過程説の解説を読んだ人ならば、彼のいう「表示義(デノテーション)」が何を指しているのかはもうおわかりだろう。「表示義」は、言語過程説でいうところの「意義」であり、辞書の教えてくれる社会的な約束としての一般的な概念のことである。

一方、「共示義」は言語を受け取った人の思い浮かべる特定の「イメージ」のことである。どのような「イメージ」かというと、「表示義」に含まれないところの「その言葉から連想されるイメージ」だという。言語の受け手の認識そのものを言語の「意味」とする説であれば、この付随的な「イメージ」も言語の「意味」の内に入れなければならないだろう。

しかし、あいにくなことに、言語過程説では言語の「意味」を<対象から認識への過程的構造と、音声や文字といった表現形式とを結んでいる関係>としている。言語過程説の立場では、小林氏のいう「共示義」を言語の「意味」の範疇に入れることは当然できない注1もし「共示義」を言語の「意味」に含めるとすると、言語の受け手が感じ取ったことが「意味」になるから、言語の「意味」の取り違いや誤解は発生しえないことになるだろう。第12回でも指摘したが、言語の受け手の認識を何らかの客観的な基準と比較して初めて「意味」を取り違えたとか誤解したとかいうことができるのである。もしその基準が受け手の側にあるとすれば、受け手の感じ取った「意味」と基準とのズレは起りようがない。

以上より、小林氏のいう「表示義」と「共示義」のいずれも言語の「意味」とは呼べないことは明かだろう。

彼の言語観では、言語の受け手側だけを見て送り手側の存在を無視しているのだから、「表示義」と言語の「意味」との関係を正しく取り上げることができないのは必然である。また、言語の受け手の思い浮かべる「イメージ」を「記号内容」とする考え方では、「その言葉から連想されるイメージ」が言語の「意味」に含まれてしまうのも、これまた当然の帰結というほかない。

『詩のトリセツ』の「コロケーション」論

小林氏は、言葉を受け取った人は心の中に「イメージ」が喚起されると主張する。そうすると、この「イメージ」の喚起がどのように発生するのか、そのメカニズムをどう説明するかが問題になる。彼は「イメージを作る方法」の一つとして「語と語の組み合わせ」を生み出すことを挙げている。

 一つ目は、「ことばとことばの結合」、言いかえれば「語と語の組み合わせ」を生みだすことです。実際、ある言葉に別の言葉を組み合わせると、そこに新しいイメージが生まれることがあります。例えば、「しわくちゃな」という語と「顔」という語を組み合わせて、「しわくちゃな顔」というフレーズを作ると、私たちは「しわだらけで老けた顔のイメージ」を心に描くことができます。一方、「ほてった」という語と「顔」という語を組み合わせた「ほてった顔」の場合、「熱で赤くなった顔のイメージ」が思い浮かぶことでしょう。このように、ふたつ丶丶丶以上の丶丶丶単語を丶丶丶組み合わせて丶丶丶丶丶丶できる丶丶丶言葉の丶丶丶フレーズ丶丶丶丶は「コロケーション」と呼ばれ、さまざまなイメージを生みだすうえで重要な手法の一つとなっています。[4]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,153。強調は原文ママ。

「語と語の組み合わせ」が「さまざまなイメージを生みだす」という小林氏の主張は、明らかに彼の形式主義的な言語観に災いされたものである。

彼は「イメージ」の定義からして言語の送り手の存在を全く無視しているために、言語の「イメージ」は言語の形式から直接に喚起されるとしか考えることができない。ここから、言語形式が異なれば喚起される「イメージ」も異なってくる、という発想が生れるのは無理からぬことである。

「コロケーション」という特定の語と語の組合せは、言葉を使用する上での習慣だけで決定されるものではない。この組み合わせは、語法や文法といった言語表現に必要な規範による制限を受けていることにも注意する必要がある。語と語を組合せるといっても、文法に違反した形で語を組合せることができないのは、普段言語を使用している私たちにとってごく当たり前の事実である。

言語の規範と言語使用上の習慣との関係を正しく捉えて初めて「コロケーション」を理解したといえるのだが、小林氏の「コロケーション」論では言語の規範に関する考察がまったく欠けている。彼は日常的に使われる「コロケーション」の特徴を次のように述べる。

私たちが日常的に使い古しているコロケーションには、どのような特徴があるでしょうか?実は、私たちが普段使っているコロケーションは、特定の語と語の結びつきがあらかじめ決められていることがほとんどです。例えば、「招かれざる」という言葉の後に続く言葉は何だろうと考えたとき、おそらくほとんどの人は「客」と答えることでしょう。また、「お似合いの」という言葉を聞いて連想するのは、「服」や「ドレス」という言葉かもしれません。
 このように、一般的な言葉と言葉の組み合わせというのは、たいていの場合ある程度予測できるものとなっており、私たちが自分勝手に変えられるものではありません。いわば、言葉の組み合わせはそのほとんどが固定化されてしまっているのです。
 こうした語と語の習慣的な結びつきは、日常生活のなかで徐々に培われていったものです。どの言葉を組み合わせるべきかについて、私たちはいちいち頭を悩ませる必要がないので、一般的なコロケーションはとても便利なツールであると言えるでしょう。[5]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,171

「特定の語と語の結びつきがあらかじめ決められていることがほとんど」なのはなぜか?それは第一に、語と語の結びつきに関する法則は、言葉表現に必要な規範(言語規範)によってあらかじめ決められているからである

例えば、「招かれざる」の後ろに動詞の「歩く」や形容詞の「美しい」を置くことができないのはなぜか?それは語と語の結びつきに関する言語規範、すなわち文法に違反しているからである。「招かれざる」の「ざる」は後ろに名詞が続くときの活用形と日本語の文法で決まっているので、その後ろに動詞や形容詞は接続できない。「「招かれざる」という言葉の後に続く言葉は何だろう」と考えたときに「歩く」とか「美しい」とかを連想する人はまずいないのは、こういう文法が各人の頭の中に入っているからにほかならない。

言語表現をするときに守るべきルールがあるのは、野球やサッカーといったスポーツをするのに守るべきルールがあるのと同じである。どんなスポーツでもルールに反したプレイやゲームの進行は禁じられているのと同様、私たちが日本語を使ってコミュニケーションする場合にも日本語に関するルールを無視して言語表現をすることはできない。

もちろん、「コロケーション」における語の結びつきは、小林氏のいうとおり「日常生活のなかで徐々に培われていったもの」という側面もある。これが「コロケーション」が固定化されて使用される理由の第二である。

例えば、「招かれざる客」というフレーズは、本当はパーティに呼ばれていないのに来てしまった客に対して使えるだけでなく、比喩として人間以外の対象にも使うことができるだろう(例えば、夏の真夜中に部屋に入り込んで、耳障りな羽音を立てて私たちの睡眠を邪魔する蚊に対して、など)。

このような定型表現の一部はことわざとして人びとの間に定着している。

例えば、誰もが知っている「急がば回れ」「負けるが勝ち」「背に腹は替えられぬ」といったことわざは、昔から人々が生活の中で経験し学んできたことを凝縮し、これを人々の生活の指針として役立てられるよう簡潔な表現で表したものである。私たちは、このことわざを生活上の問題を処理するときの指針として活用したり、あるいは他人を教え諭すときにこれを引き合いに出したりしている。

ことわざをはじめとする特定の語の組合せが定型として使われるようになったのは、これが様々な場面で使える便利なものであるために、次第に言語を使用する人たちの間で定着していったからにほかならない。

以上の二つの理由により、「コロケーション」は「たいていの場合ある程度予測できるもの」であり、また「私たちが自分勝手に変えられるもの」ではないのである。

日本語の文法を知っている人は「招かれざる」の後ろに「歩く」を置けないことを「予測できる」し、この文法は「私たちが自分勝手に変えられるもの」ではないことも知っている。こういった語の並べ方は文法という規範によってあらかじめ定まっているからである。また、ある人が「招かれざるリンゴ」というフレーズを新しく思いついたとしても、これは文法的には正しいものの、日常生活で私たちが習慣的に使うフレーズではない。よって、この「コロケーション」が定型表現として他の人たちの間にすぐさま定着することはおそらくないであろう。

詩のような文芸作品にしろ、実用的な言語表現にしろ、言語の背後には言語の規範(語法や文法など)が存在していることは、私たち言語の使用者にとってごく当たり前の事実である。当然「コロケーション」を使って詩的表現を行う場合も、文法を無視した語の組合せを作ることはできない。

よって、「コロケーション」を取上げるときは、まず第一に言語に関する規範(言語規範)と語との関係について考察する必要があるのだが、小林氏はこの点をまったく見逃している。彼は「こうした語と語の習慣的な結びつきは、日常生活のなかで徐々に培われていったものです」と述べるのみで、語と語の結びつきを単なる実践の問題に帰してしまっている。

言語規範という土台の上に言語の実践における習慣が存在するのであって、この言語規範と実践との関係を正しく捉えて初めて「コロケーション」を正しく理解したといえるのである。小林氏は言語の使用上の習慣という実践の問題だけを見て、その土台となっている部分を見ていないのだから、彼の「コロケーション」に対する理解は皮相的だといわざるを得ない。

繰り返しになるが、小林氏の言語観は、言葉が(受け手の)「イメージ」を喚起させるという、言語の送り手を無視した形式主義的なものである。

この考え方を敷衍していくと、言葉が変れば喚起される「イメージ」もまた変る、ということになるだろう。さらにここから、言語の送り手が他人に非日常的な対象の「イメージ」を伝えたいと思った場合は非日常的な言葉を使わないといけない、という考え方が出てきても不思議ではない。むしろ、論理的な帰結としては当然そうならざるを得ない。

小林氏はまさにこの考え方の上に立って「詩人が使うコロケーションの特徴」について次のように述べる。

 しかしながら、自分だけが感じている特別な感情や、たった一回だけの神秘的な出来事を表現しようと思ったとき、このような使い古されたコロケーションではうまく自分の思いを伝えられないかもしれません。例えば、ある人に対してあなたが感じた「愛」は、ただあなただけが感じている、かけがえのない感情です。そうした特別な感情は、「本当の愛」や「真実の愛」などといった、ありきたりな言葉の組み合わせではうまく表現できないことでしょう。また、私たちをとりまく環境はどうでしょうか? たとえ毎日同じ道を歩いていても、景色は天候や季節によって絶えずその姿を変えていきます。まったく同じ風景、同じ景色というのは、二度とありません。ときには、それまで見たこともないような神秘的な光景を目撃することもあるでしょう。そのようなとき、「美しい景色」や「きれいな光景」といった、いわゆる型にはまったコロケーションでは、自分の体験を決して正確に伝えることはできません。[6]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,181

私たちは習慣的な語の結びつきを使っているかぎり、日常的な世界から脱出することはできません。深い感動や真実を表現するためには、こうした使い慣れた結びつきのパターンを破壊し、新しい結びつきを生みだす必要があるのです。[7]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,194

 新しい結びつきの創造――まさにこれこそ詩人が使うコロケーションの特徴です。詩人は、ある語を「普段パートナーにしている語から別れさせ、一緒になるとは想像もされなかった語と予期せぬ新しいパートナー関係」を作り出そうとします。惰性的な語の組み合わせに揺さぶりをかけ、新しい言葉の融合を生みだすことで、そこに新しい意味を発見しようと試みるのです。[8]前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,199

言語の背後に言語の話し手・書き手の存在を認める人々は、言語は話し手・書き手の認識と関係を持っていることも認める。このような人々は、芸術的言語と非芸術的言語との区別は、言語に結びついている話し手・書き手の認識を基準に、さらに進んで(認識の特殊形態の一つである)目的を基準になされるべきだ、と考える。つまり、話し手・書き手が何を目的として表現したかによって、鑑賞目的の芸術的言語か、あるいは実用目的の言語かが区別されると考えるのである。

ところが、言語の背後に話し手・書き手がいることを最初から無視している人々は、こういう考え方ができない。すると、芸術的言語とそうでない言語とを区別するための基準を、話し手・書き手と無関係の要素に求めなければならなくなる。その結果、言語の形式的な側面を基準に芸術・非芸術を区別するしかなくなってしまう。これは形式主義的な言語観による論理的強制というほかない。

小林氏は詩的言語とそうでない言語とを区別する基準をどこに見出したか?彼曰く、「詩人のコロケーションの特徴」とは「使い慣れた結びつきのパターンを破壊し」「新しい結びつきを生みだす」ところにあるという。つまり、詩的言語とそうでない言語との区別の基準を語の組合せパターンに求めた。やはり、話し手・書き手とは無関係の、言語の形式的特徴にその基準を求めざるを得なかったわけである。

第14回に続く

脚注

  • 注1
    もし「共示義」を言語の「意味」に含めるとすると、言語の受け手が感じ取ったことが「意味」になるから、言語の「意味」の取り違いや誤解は発生しえないことになるだろう。第12回でも指摘したが、言語の受け手の認識を何らかの客観的な基準と比較して初めて「意味」を取り違えたとか誤解したとかいうことができるのである。もしその基準が受け手の側にあるとすれば、受け手の感じ取った「意味」と基準とのズレは起りようがない。

References

References
1 小林真大『詩のトリセツ』(五月書房、2021年)「第2章 詩のリズム」位置No.321(以下Kindle版の位置No.で引用箇所を示す)。強調は原文ママ。
2 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,127、強調は原文ママ
3 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,317。強調は原文ママ。
4 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,153。強調は原文ママ。
5 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,171
6 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,181
7 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,194
8 前掲書「第3章 詩のイメージ」位置No.1,199