言語における客体的表現と主体的表現(1)

これまで「言語表現の過程的構造について」というタイトルで言語過程説に関する一連の記事を書いてきた。「言語表現の過程的構造について」の第7回第14回では言語学者三浦つとむ(1911-1989)の言語理論について解説した。

これまで見てきたように、彼は国語学者の時枝誠記(1900-1967)が提唱した学説「言語過程説」を継承し、これに批判的な修正を加えて時枝の言語過程説をさらに発展させたといえる。その意味で三浦の言語理論は時枝の言語過程説の延長線上にあるものといってよいだろう。

前回「言語表現の過程的構造について(14)」の最後でも触れたように、三浦の言語理論のうち紹介しきれていない部分はまだ数多くある。まだ紹介できていない彼の理論のうち主要なものとして以下の2点を前回挙げておいた。

  • 語の分類として客体的表現と主体的表現とを区別したこと
  • 言語における二つの立場――主体的立場と客体的立場――について

今回は「語の分類として客体的表現と主体的表現とを区別したこと」について解説したいと思う。

三浦つとむの言語本質論のおさらい

言語表現の過程的構造について(8)」において三浦の言語本質論について取り上げたとき、言語は文字や音声の種類という超感性的な面の表現であるという彼の主張を紹介した。そして、言語が超感性的な面における表現であることから、次の三つの特徴が生じると彼は述べている。

  1. 言語の社会的な約束としての言語規範が必要となる
  2. 言語では客体的表現と主体的表現が分離して存在する
  3. 言語には言語表現と非言語表現の二重性が存在する

1については「言語表現の過程的構造について(9)」、3については「言語表現の過程的構造について(8)」で取り上げたが、2についてはまだ解説していなかった。

ここでいう「客体的表現」と「主体的表現」はもともとは時枝誠記が提唱した概念であり、さらにこの概念は江戸時代の国学者が提出した学説に影響を受けていることを時枝が自身の著書で明らかにしている。言語過程説においては「客体的表現」と「主体的表現」の区別が重要な問題として取り上げられ、言語過程説を取り上げる際はこの問題を避けて通ることはできない。

三浦もこの問題の重要性をはっきり認識していた。彼は時枝の学説に対して肯定的な評価をするとともに、批判的な修正を一部加えてもいる。以下、言語における「客体的表現」と「主体的表現」について詳しく見ていこう。

絵画・写真と言語との比較から見えてくること

三浦つとむは言語学の解説書『日本語はどういう言語か』において、言語について論じるにあたって最初に言語と絵画とを比較することから始めている。これは他の言語学の解説書にはあまり見られないユニークなアプローチであるが、これにはきちんとした理由がある。

その理由について三浦は次のように述べている。

これまでの言語の解説書は、はじめから言語について論じたものばかりで、絵画と比較検討したものはありませんが、文字言語の中の象形文字とよばれるものが絵画から発展して来たことは言語学者にとって常識ですし、絵画と文字をどこで区別するかという問題はすでに学者につきつけられているのです。言語も絵画も、人間がその認識を見たり聞いたりできるような感覚的なかたちを創造することで外面化し、それによって他の人間に訴えるという点で、別のいいかたをするなら、作者の表現であり精神的な交通の手段であるという点で、共通しています。もちろん、言語と絵画とのあいだには大きなちがいがあって、絵画から文字が生れたのは一つの飛躍なのですが、そのちがいどころか、共通点すらもまだ学問的に明らかにされていないのです。ですから、このちがいを学問的に明らかにし、言語が表現としてどんな特徴を持っているかを正しく理解するための第一歩として、まずこれらの共通点から考えてみることにしましょう。[1]三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.14,15。強調は原文ママ、以下同。

三浦も指摘しているように、言語学の解説書でははじめから言語について取り上げて論じることが多く、言語と他の表現との違いについて触れた解説書はおそらくあまりないだろう。言語の特徴を理解するにあたって最初に言語と絵画とを比較することは、読者から見れば一見遠回りのことをしているようにも見えるかもしれない。

しかし言語と絵画との比較は、両者の違いを明かにするだけではなく、言語表現が持つ独自の特徴を浮き彫りにするのに非常に合理的であることがこの後の解説でわかると思う。まずは三浦にならって、絵画・写真と言語とを比較したときにどのようなことがわかるか、詳しく見てみよう。

鎌倉の大仏を写した写真1
写真1[2]Wikipediaの以下のページからダウンロード
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:-Buddha_Sculpture-_MET_DP155601.jpg
鎌倉の大仏を写した写真2
写真2[3]Wikipediaの以下のページからダウンロード
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Farsari_Daibutsu.jpg

例として写真を2つ掲げた。これらはいずれも明治時代に撮影された写真で、異なる写真家が同じ大仏を写したものである。注1撮影されている大仏は「鎌倉の大仏」として有名な神奈川県鎌倉市にある高徳院の大仏。
写真1の撮影時期は1870年代で、撮影者は幕末・明治時代の写真家である鈴木真一(1835-1918)。写真2の撮影時期は1880年代で、撮影者は明治時代に横浜を拠点に活躍したイタリアの写真家アドルフォ・ファルサーリ(1841-1898)。写真1、2ともにWebサイトのWikipediaから引用のためダウンロードした。

この2つの写真を見比べてみると、両者には違いがあることがわかる。どのような違いがあるだろうか?「大仏の向いている方向がちがう」「大仏の周りにいる人の数がことなる」「大仏に対する撮影した人の見かたにちがいがある」などなど……挙げようと思えばいくらでも出てきそうだ。しかし、ここでは「大仏に対する撮影した人の見かた」に特に注目してもらいたい。

写真を撮影するには、撮影者は大仏に対して一定の関係を持たなければならない。上の2つの写真についていえば、1枚目は撮影者が大仏に向かってやや左の位置から大仏を撮影したのに対し、2枚目の写真は大仏の真正面から大仏を写している。このように撮影者と大仏との位置が違うと、当然撮影者の目に映る大仏の見え方にも違いができ、この違いが写真のありかたの違いとして写真に反映されるわけである。

別の言い方をすると、写真はその撮影の対象を示すと同時にそれを撮影した人の位置をも示しているといえる。上の写真の撮影者はおそらく自分の位置を示そうと意識していなかっただろうが、にもかかわらず結果としては写真に撮影者の位置を示すことになってしまう。

どんな写真でも、うつされる相手のかたちをとらえるだけでなく、それと同時に、うつす作者の位置をも示しているのです。[4]前掲書P.16

写真と同じことが、絵画の場合でもいえる。たとえば、人物のスケッチをする場合、モデルとなる人を真正面から見て描くか、あるいは真横から見て描くかによって紙の上に描かれるスケッチのありかたも異ってくる。写真と同様、絵画は描く対象のかたちを示すだけでなく、同時に絵画の作者の位置をも示している。

 ちょっと考えると、写生されたり撮影されたりする相手についての表現と思われがちな絵画や写真は、実はそれと同時に作者の位置についての表現という性格をもそなえており、さらに作者の独自の見かたや感情などの表現さえも行われているという、複雑な構造をもち、しかもそれらが同一の画面に統一されているのです。作者のとらえる相手を客体とよび、作者自身を主体とよぶなら、客体についての表現をすることが同時に主体についての表現を伴ってくることになります。絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現のきりはなすことのできない統一体として考えるべきものであり、主体的表現の中にはさらに位置の表現と見かたや感情などの表現とが区別される、ということになります。では、言語ではこの二種類の表現はどういうかたちをとってあらわれるか? どう結びついていくか? これが第一の問題です。[5]前掲書P.17,18

次は以下のイラストを見てもらいたい。

驚いている人のイラスト
驚いている人のイラスト[6]ダウンロード元
https://www.irasutoya.com/2018/02/blog-post_679.html

目玉が飛び出るほどびっくりしている人の絵である。驚きの感情を表現するのにこのような描き方をするのはイラストや漫画ではよくあるやりかたで、違和感を覚える人はおそらくほとんどいないだろう。

しかしあらためて考えてみると、実際に目玉が顔から何センチも離れて飛び出している人はまずいない。たしかに「目玉が飛び出す」という慣用句があるが、それは人が非常に驚いているさまを表す表現であって、本当にその人の目玉が顔から飛び出ているわけではないのである。その意味では、上のイラストは現実のありかたと異った異様な表現ともいえるだろう。

現実には目が顔から飛び出ているわけではないのにイラストの上では目が顔から何センチも離れているように描かれているのは、イラストの人物の驚きを(多少大げさに)表現するためにほかならない。この驚きという感情は主観的なもので、この感情は客観的には直接見ることができないものである。イラストの人物の客観的なありかたをそのまま描くだけでは、この人の「驚き」までは表現することができない。

そこで上のイラストの作者は、頭の中でこの人物の立場に移行して、この人の主観である「驚き」を「目玉が飛び出す」さまを描くことによって表現しているわけである。

ここに二つの立場がある。一つはイラストの人物を客体としてとらえる立場で、もう一つはこの人自身の立場である。上のイラストではこの二つの立場の二つの表現が一つの絵の中に重なり合っている、ということができるだろう。

このように二つの立場の二つの表現が重なり合う例は、絵画以外の芸術作品にも見出すことができる。例えば、映画やラジオドラマにおける伴奏音楽は、物語の世界の中の会話や音響と重なり合うかたちで映画やドラマの中に存在している。伴奏音楽は登場人物の心情や事件の動きを表現するもので、同じ音であっても映画やドラマの世界の会話や音響とは異なる表現として区別されなければならない。

この二つ(伴奏音楽とラジオドラマの中の世界の音響、引用者注)は同じように音であり一つのスピーカーから出ていても、それはちがった立場に立っての表現です。伴奏音楽そのものはドラマの中の現実の世界で演奏されているのではありません。その世界の人物の心理や事件の動きを表現しているという意味で、ドラマの中の現実の世界とつながってはいても、音楽そのものはその世界と別に、その世界の外側にある表現として、重なり合っているのです。ですからドラマの中へ楽団が出る場合と、伴奏音楽とは、たとえ同じ音楽が演奏されるにしても、ちがったものとして扱わなければなりません。映画でもこれとまったく同じことがいえます。伴奏音楽は画面の世界と内容的にはつながっていながらも、画面の世界とは別に画面の世界の外側において存在しているものであって、画面の中に楽団が出て演奏する場合とはちがうのです。[7]前掲書P.23

このように同じ絵画や音楽であっても、その絵画や音楽が表現している世界の客観的なありかたを表したものと、その世界の中の人物の主観を表したものとがある。この二つは見かけは同じでも異なる表現として区別しなければならない。

ところで、言語においてはこの二つの表現がどのように現れるだろうか。この問題について三浦は一つ例を挙げている。

 同じ画面や同じ音楽でありながら、現実の世界の中で使われる場合とその外で使われる場合とを区別しなければならないという事実は、言語の理解にあたっても重要な示唆をあたえるものです。(中略)

(1) 彼は実に男らしい
(2) 暗くてよくわからないが男らしい

 (1)の場合は、この言葉の話し手がとらえた相手のありかたです。現実の世界の「中」のことです。ところが(2)の場合は、この言葉の話し手の主観に存在するものを表現しているので、話し手の推量そのものを直接に示す語として扱われなければなりません。現実の世界のありかたから、相手のありかたが暗くてよくわからないということから、この推量がうまれてきたという意味で、現実につながってはいても、推量そのものはあくまでも現実の世界の「外」に主観的なものとしてうまれているのです。これは(1)の「らしい」と本質的にちがった性質の表現です。文法では、(1)を〈接尾語〉、(2)を〈推量の助動詞〉として一応区別していますが、単に区別するだけでなくそこに本質的なちがいのあることをみとめることが必要です。ある種の表現が形式を変えることなしにそれと対立した性格の表現に移行するものとして理解しなければいけないのではないか、と考えてみることが必要です。[8]前掲書P.24

今回のまとめ

以上、絵画・写真と言語との比較から次の2つの問題について取り上げた。

1. 絵画や写真においては客体的表現と主体的表現という2つの表現が切り離せないものとして統一されている。これに対して言語ではこの2つの表現がどのようなかたちで現れるか?

2. 絵画や写真では見かけが同じでも客体的表現である場合と主体的表現である場合を区別しなければならない。言語における客体的表現と主体的表現との区別は、言語学においてはどのような問題と結びついているか?

次回は言語における客体的表現と主体的表現のありかたについてより詳しく見ていく。

第2回に続く

脚注

  • 注1
    撮影されている大仏は「鎌倉の大仏」として有名な神奈川県鎌倉市にある高徳院の大仏。
    写真1の撮影時期は1870年代で、撮影者は幕末・明治時代の写真家である鈴木真一(1835-1918)。写真2の撮影時期は1880年代で、撮影者は明治時代に横浜を拠点に活躍したイタリアの写真家アドルフォ・ファルサーリ(1841-1898)。写真1、2ともにWebサイトのWikipediaから引用のためダウンロードした。

References

References
1 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.14,15。強調は原文ママ、以下同。
2 Wikipediaの以下のページからダウンロード
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:-Buddha_Sculpture-_MET_DP155601.jpg
3 Wikipediaの以下のページからダウンロード
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Farsari_Daibutsu.jpg
4 前掲書P.16
5 前掲書P.17,18
6 ダウンロード元
https://www.irasutoya.com/2018/02/blog-post_679.html
7 前掲書P.23
8 前掲書P.24