言語における客体的表現と主体的表現(2)

前回は絵画・写真と言語との比較から以下の2つの問題について取り上げた。

1. 絵画や写真においては客体的表現と主体的表現という2つの表現が切り離せないものとして統一されている。これに対して言語ではこの2つの表現がどのようなかたちで現れるか?

2. 絵画や写真では見かけが同じでも客体的表現である場合と主体的表現である場合を区別しなければならない。言語における客体的表現と主体的表現との区別は、言語学においてはどのような問題と結びついているか?

今回は1の問題、すなわち「言語では客体的表現と主体的表現がどのようなかたちで現れるか」について詳しく見てみよう。

単語とはなにか

これから言語における客体的表現と主体的表現について具体的に考察していくのだが、その際に必ず「」あるいは「単語」という語彙が出てくる。

私たちは普段の生活において「この単語の意味がわからない」とか「彼の語の選び方はユニークだ」などと話しているが、あらためて「語」または「単語」とは一体どんなものか?と質問されると多くの人が答えに窮することだろう。「語」も「単語」もほぼ同じ意味の語彙として使われるし、どちらも言葉のある種の単位を指していることは誰にでもわかるのだが、この単位がどのようなものかについて説明しようとすると意外に難しい。注1「語の分類ということは、一見さほど困難でないように思えるが、実は容易ならぬ問題である。日本語は西欧の言語のようにわかち書きをしていないから、日本語について論じる学者はそれをどう区切って一の語と認めるかという、今一つの問題をいっしょに負わされている。そしてこの二つの問題は決して無関係ではなく、一方でのふみはずしは否応なしに他方の解決を歪めることになる。区切りかたについての自分の原理原則を持たないと、西欧の言語のわかち書きから類推して区切りを行い、これに西欧の文法論を焼き直した分類を与えるということになりかねない。」
「自主的にかつ科学的にこれらの問題を解決するには、語あるいは単語とはいったい何であるか、その本質を把握することが不可欠である。」
三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房、1972年)所収「語の分類について」P.68

「単語」に対する言語学者の説明には当然ながらその学者の支持する学説の特徴が現れることになる。これは言語過程説においても同様である。言語過程説は「単語」をどのようなものと考えているかについて、三浦つとむの説明を聞いてみよう。

 言語で単語といわれるのは、その話し手の一概念が表現されている部分です。

私・の・本。
梅・に・うぐいす。

 これらは三つの単語から構成されています。われわれは、これらを切りはなして扱い、それぞれの社会的な約束を辞書で説明しています。しかし多くの人びとが切りはなして扱うとか、辞書で別々に説明してあるとかいうことは、必ずしも基準にはなりません。これまでは二つの概念として表現し、単語を結合したいわゆる複合語として扱っていたのが、ある話し手の認識においては一つの概念として扱われることになり、ひいてはこれがあたらしく社会的な約束となることもあります。[1]三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.75。強調は原文ママ、以下同。

三浦の「単語」に対する定義はとてもシンプルでこれに付け加えることはほとんどないが、「これまでは二つの概念として表現し、単語を結合したいわゆる複合語として扱っていたのが、ある話し手の認識においては一つの概念として扱われること」について少し例を挙げてみよう。

例えば、誰もがよく知っている「さつまいも」という芋がある。これを漢字で書くと「薩摩芋」であり、江戸時代に薩摩国(現在の鹿児島県の西部)から日本全国へ広まったため、このような名前がついている。当時は薩摩から来た芋なので「薩摩」「芋」という2つの単語を結合したいわゆる複合語として扱われた。

ここでいう「薩摩」と「芋」はそれぞれ別の概念を指していたが、時代が下って日本各地で栽培されるようになり薩摩から来た芋という意識が人々の頭から消えてしまうと、この芋はたとえ鹿児島県産でなくても「さつまいも」と呼ばれるようになった。現在の「さつまいも」は、「さつま」と「いも」という異なる概念を表した2単語が複合した表現ではなく、「さつまいも」だけで1つの概念(以下の写真のような芋)を指している1単語と見るべきだろう。

さつまいもの写真
さつまいもの写真[2]Wikipediaの以下のページからダウンロード
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ipomoea_batatasL_ja01.jpg

また、男性がスーツの下に着る襟付き・カフス付きのシャツのことを「ワイシャツ」と呼ぶが、これはもともと英語の”white shirt”が由来と言われている。

“white shirt”は白いシャツの意だが、現在では青いワイシャツやピンクのワイシャツも販売されている。もともとは”white”と”shirt”という異なる概念を表す単語の複合した表現だったのが、世に広まるにつれて人々の間で「白いシャツ」という意識が薄れて単に「スーツの下に着る襟とカフス付きのシャツ」を指すようになったものと思われる。現在の「ワイシャツ」はもはや2単語が複合した表現ではなく、「ワイシャツ」で1つの概念を指す1単語と考えるべきだろう。

このように、以前は二つの概念を表す語の複合した表現だったものが一つの概念を表す表現に変っているならば、これは複合語とよばれる表現から単語への変化と見なければならない。言語の形式は内容によって支えられており、形式は同じでもその内容が違う二つの言語があるならば、それは言語としては別々の表現と考える必要があるのである。

 言語学者には、語のかたちや語が独立して使われるか、それともつねに他の語に伴うかたちで使われるかといった、形式のありかたから語を分類する傾向があります。けれども、この語の形式は内容によってささえられているのであって、たとえ形式は同じでも意義を異にする別の種類の語があるならば、形式を同じくする二種類の異なった語があると見なければなりません。「彼は急に笑いだした」というときは〈動詞〉でも、「部屋中に笑いの渦がひろがった」というときは〈名詞〉です。この区別も、行動をそのまま行動としてとらえたか、それとも行動を固定して実体的にとらえたかという、話し手の認識いかんに基づいています。つねに他の語に伴うかたちで使われても、〈助詞〉や〈助動詞〉は〈名詞〉や〈動詞〉とまったく異質の意義を持つ語ですから、これらも一語と見なければなりません。かつては二つの概念を複合して表現していたのに、現在では一つの概念の表現に変っているとすれば、複合語から単語に変化したものとして扱うのも、内容の変化による語の分類の変化です。[3]前掲書P.76,77

以下では三浦つとむにならって「語」および「単語」を「言語のうち一概念が表現されている部分」という意義の語彙として使うこととしよう。

言語の特徴—客体的表現と主体的表現が分離していること

前回は絵画や写真における主体的表現と客体的表現のありかたについて見たが、言語ではこの2種類の表現はどのように存在しているだろうか。

言語における客体的表現と主体的表現について、三浦は以下の簡潔で要を得た説明をしている。

一、客体的表現
二、主体的表現

 一は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など、〈感動詞〉といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの〈助動詞〉、「……ね」「……なあ」などの〈助詞〉、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。[4]前掲書P.77

絵画や写真においては客体的表現と主体的表現が統一されたかたちで同じ画面の中に存在していたが、これとは反対に言語ではこの二種類の表現が分離され互いに独立したかたちであらわれる。言語においては客体的表現と主体的表現は別のかたちで表され、この二種の表現の組合せによって言語表現が行われる。

ところが日本語にあっては

(客) (主)
火事・だ。

のように、客体的表現と主体的表現とが分離していて、二種類の単語を組合せて表現するのが普通です。また

ええ。(主)
行く。(客)

のように、主体的表現あるいは客体的表現だけを単独に使うこともあります。[5]前掲書P.80

ここで前回も紹介した〈言語は文字や音声の種類という超感性的な面の表現である〉という三浦の言語本質論を思い起こしてほしい。絵画は対象の感性的な面をとらえて模写する表現であるのに対して、言語は対象の感性的な面と関係を持たない表現形式をとる。このことは対象の感性的な面における制約からの開放である一方で、これにより言語では客体的表現と主体的表現とが分離されるという結果を生み出すことにもなったのである。

さらに、この二種の表現が分離した代わりに、言語では言語的表現と非言語的表現との二重性が生れている点も忘れてはならない注2詳細は「言語表現の過程的構造について(8)」を参照。

 言語は、絵画や映画のような、対象の感性的な面をとらえて模写する表現ではありません。対象の感性的な面をとらえて模写するということは、とりもなおさず作者の感覚器官の位置、感覚的なとらえかたにしばられることでもあるわけです。(中略)ですから、言語が対象の感性的な面と関係をもたない表現形式をとるということは、またこのような制約からの解放でもあるわけです。そのために、絵画や映画では客体的表現と主体的表現とが切りはなせないものとして存在したのに、言語では分離され個々に独立したものとして存在する結果となるのです。いいかえると、言語が対象の感性的な面からの制約をのがれたということは、一方では表現のための社会的な約束を必要とする結果を、また他方では客体的表現と主体的表現とを分離させる結果を生み出したわけで、ここに言語の本質的な特徴を求めなければなりません。表現の二重性は、絵画や映画の場合では客体的表現と主体的表現の統一として存在しましたが、言語ではこれが分離したかわりに、今度は言語的表現と非言語的表現というかたちの二重性がうまれている点がちがっています。[6]前掲書P.81

第3回に続く

脚注

  • 注1
    「語の分類ということは、一見さほど困難でないように思えるが、実は容易ならぬ問題である。日本語は西欧の言語のようにわかち書きをしていないから、日本語について論じる学者はそれをどう区切って一の語と認めるかという、今一つの問題をいっしょに負わされている。そしてこの二つの問題は決して無関係ではなく、一方でのふみはずしは否応なしに他方の解決を歪めることになる。区切りかたについての自分の原理原則を持たないと、西欧の言語のわかち書きから類推して区切りを行い、これに西欧の文法論を焼き直した分類を与えるということになりかねない。」
    「自主的にかつ科学的にこれらの問題を解決するには、語あるいは単語とはいったい何であるか、その本質を把握することが不可欠である。」
    三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房、1972年)所収「語の分類について」P.68
  • 注2

References

References
1 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.75。強調は原文ママ、以下同。
2 Wikipediaの以下のページからダウンロード
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ipomoea_batatasL_ja01.jpg
3 前掲書P.76,77
4 前掲書P.77
5 前掲書P.80
6 前掲書P.81