言語表現の過程的構造について(8)

言語の本質

前回は三浦つとむが提唱した表現と<像>の一般理論について解説した。三浦によれば表現とは<像>の一種であり、これは認識という観念的な<像>を反映した物質的な<像>にほかならない。

今回は、言語が他の表現と区別される本質的な特徴、すなわち言語の本質について考えてみたい。表現には絵画、彫刻、音楽、映画、写真など様々な種類があるが、これらと比べて言語はどのような特徴を持つのだろうか。

まず、絵画と言語とを比較してみよう。例えば、誰もが知っている有名な画家フィンセント・ファン・ゴッホ注119世紀オランダの画家(1853-1890)の自画像について考えてみる。

もし筆者がこの絵画にイタズラをしてゴッホの鼻を大きくしたり耳を小さくしたり髪の色を真っ白にしたりしたらどうなるだろうか?もちろんそんなことをしたら、制作者のゴッホは表現が歪められたと言ってカンカンに怒ることだろう。

一方、言語の場合、作家が紙の上に万年筆で書いた原稿を活字体で印刷しても、それは決して表現を歪めたことにはならない。手書きで書かれた原稿の文字を、活字で印刷しても、ネオンサインで複製しても、電光掲示板に表示させても、その原稿の文の意味は変らないのである。

ここから、絵画とちがって、言語の感性的なありかたは意味と直接の関係をもたないことがわかります。今度は、言語に手を加えて意味の変化する場合を見ましょう。点を移動させ(太←→犬)、点を加減し(水←→氷)、線を加減する(未←→末、甲←→申)などは、感性的にきわめて小さな加工でありながら、加工を許されていないのです。「木を売る」を「本を売る」に変えれば作者から抗議が出ます。これらの事実は、何を示すでしょうか? 感性的なかたちの変化は、そのかたちが一定の種類に属するかぎりにおいて、その範囲を出ないかぎりにおいて自由であり、たとえ小さな変化であっても、そのかたちが他の種類に属するものに転化するような場合は許されない、ということです。言語の意味は、絵画の内容とちがって、感性的なかたちそのものにつながっているのではなく、そのかたちの他の一面に、すなわちそれが一定の種類に属しているという普遍的な面につながっているのです。この点はよく理解しておかなければなりません。言語で表現するということは、たしかに音声や文字のような感性的なかたちを創造することにはちがいありませんが、それはあくまでも一定の種類に属している感性的なかたちであり、この普遍的な面の創造こそが言語としての表現なのです。絵画が単なる絵画ではなくて、一定の種類に属したものになり、その種類の面で書き手の概念を表現することになれば、それは象形文字の誕生です。[1]三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.47、48、強調は原文ママ(以下同)

「水」という文字の感性的なかたちを変えてみる
『日本語はどういう言語か』P.47の図を参考に作成

「言語の意味は、絵画の内容とちがって、感性的なかたちそのものにつながっているのではなく、そのかたちの他の一面に、すなわちそれが一定の種類に属しているという普遍的な面につながっている」という点がとても重要である。三浦も例に挙げているように、「木を売る」と「本を売る」はかたちの上では一本の線の違いしかないが表現としてはまったくの別物である。一本の線の違いによって文字の種類がすっかり変わってしまうからだ。

一言でいえば、言語は文字や音声の種類という超感性的な面の表現ということになる。ここが絵画や彫刻といった感性的な面の表現と言語とが本質的に異なる点である。

 言語は、絵画や映画のような、対象の感性的な面をとらえて模写する表現ではありません。対象の感性的な面をとらえて模写するということは、とりもなおさず作者の感覚器官の位置、感覚的なとらえかたにしばられることでもあるわけです。(中略)ですから、言語が対象の感性的な面と関係をもたない表現形式をとるということは、またこのような制約からの解放でもあるわけです。そのために、絵画や映画では客体的表現と主体的表現とが切りはなせないものとして存在したのに、言語では分離され個々に独立したものとして存在する結果となるのです。いいかえると、言語が対象の感性的な面からの制約をのがれたということは、一方では表現のための社会的な約束を必要とする結果を、また他方では客体的表現と主体的表現とを分離させる結果をうみだしたわけで、ここに言語の本質的な特徴を求めなければなりません。表現の二重性は、絵画や映画の場合では客体的表現と主体的表現の統一として存在しましたが、言語ではこれが分離したかわりに、今度は言語的表現と非言語的表現というかたちの二重性がうまれている点がちがっています。[2]前掲書P.81

言語が超感性的な面における表現であることから、次の三つの特徴が生じると三浦はいう。

  1. 言語の社会的な約束としての言語規範が必要となる
  2. 言語では客体的表現と主体的表現が分離して存在する
  3. 言語には言語表現と非言語表現の二重性が存在する

1.については次回の第9回で言及する。2.については今回の記事の中では触れる余裕がないため、後の機会に改めてまとめてみたい。以下では3.の「言語表現」と「非言語表現」の二重性について解説する。

言語表現と非言語表現

言語表現」はともかく「非言語表現」とは多くの人にとって聞き慣れない概念だろう。言語の中に「言語表現」と「非言語表現」を区別するとは、一見ナンセンスのように感じる人もいるかもしれない。しかし、超感性的な面の表現という点に言語の本質的な特徴を見るならば、以下に見るように「言語表現」と「非言語表現」という二つの概念を区別する必要が必然的に生じてくるのである。

「言語表現」と「非言語表現」という一見相反するものが言語の中に二重性として存在するとは一体どういうことか。三浦は次のように説明する。

 音声や文字は、その種類としての側面を言語表現に使っているのだが、それ以外の具体的な感覚的なありかたも、そのまま放っておかれているわけではない。多くの場合、この側面もまた、話し手や書き手の別の表現すなわち非言語表現に使われている。この非言語表現にも、言語表現と直接関係を持つものとして扱わなければならない性格のものもあれば、直接関係を持っていない性格のものもある。直接関係を持っていない性格のものとしては、音声の具体的な感覚的な部分が一つの音楽になっている、言語と音楽とが一体化された表現である歌唱丶丶があり、文字の具体的な感覚的な部分が一つの絵画になっている、言語と絵画とが一体化された表現であるがある。歌唱の歌い手は、音楽の側面で自分の創造を示すと同時に言語の側面では作詞者の表現を複製し、書の書き手は、絵画の側面で自分の創造を示すと同時に言語の側面では原作者の創造を複製している。これらとちがって、言語表現と直接関係を持つ非言語表現が伴う場合には、表現としてはまったく異質であるから正しく区別しなければならないけれども、認識としては結びついており思想の一側面であって、言語表現を非言語表現で補っている場合もすくなくない。[3]三浦つとむ『日本語の文法』(勁草書房、1975年)P.21、22注2言語表現と直接関係を持つ非言語表現の例として「抑揚 intonation」を挙げることができる。例えば「食べる?」のように文末を上昇させて発音するのが抑揚である。一方、これと一見似ている「アクセント accent」は言語表現のありかたであり、正しく区別しなければならない。
「音声言語でアクセント丶丶丶丶丶 accent と呼ばれるものは、たとえば「柿」と「牡蠣」、「橋」と「箸」の音調のちがいであって、この音節を高い調子で発音するかは発音についての規範の一部に入っている。それゆえアクセントは言語表現のありかたであり、文法上の問題としてとりあげなければならない。これに対して抑揚丶丶 intonation と呼ばれるものは、たとえば同じように「食べる」と言語表現を行なっても、文末を上昇させると問いかけの意味になったり、強く発音すると命令や強制の意味になったりして、話し手の主観をいろいろ示すことができる。文字で記録すると、この部分は符号を使って、「食べる?」「食べる!」などと記している。この抑揚での表現は、どの言語表現に伴った場合にも大体において共通した意味を持ち、そこに話し手の主観が押し出されているという点で、主体的表現の一種である。」(『日本語の文法』P.22、強調は原文)

言語の本質は超感性的な面にあるといっても、実際の言語は音声や文字といった感性的なかたちとともに表現される。つまり、言語には感性的な面(例えば音声における声色や文字における線の太さなど)が不可分に存在しているわけだが、この面における表現を三浦は「非言語表現」と呼んだ。いいかえるなら、言語には音声や文字の種類といった超感性的な面の表現である言語表現と、音声や文字の感性的な面における表現である非言語表現とが不可分に結びついているわけである。

このように言語の中には「言語表現」と「非言語表現」が相対的に独立しつつも統一されたかたちで存在しており、この点に表現の二重性が存在する。

 ここで非言語表現と私がよぶ理由は、それ自体が言語表現ではないというそれだけのことであって、言語表現に関係がないという意味ではない。この感性的な具体的なかたちの面は、概念の感性的な手がかりと同じように、超感性的な表現である言語表現のそれぞれを区別するために欠くことができないのである。(中略)非言語表現の系列は言語表現から相対的に独立しているだけに、この系列を意識的に活用することができるとはいうものの、それは言語表現による制約から完全に独立しているわけではない。制約を受けるところに相対的に独立しているということの意味もあるわけである。たとえば、詩に作曲する場合にしても、音声には言語としてのアクセントが存在するから、これからの制約を受けることになり、作曲にそのアクセントをどう生かすか、どう止揚するかという問題にぶつからないわけにはいかない。[4]三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部』(勁草書房、1967年)、P.390、391

 絵画や映画のような表現も、言語表現も、目なり耳なり相手の感覚に訴えることに変りはありません。言語は超感性的な面での表現であるにもかかわらず、相手の感覚に訴えるためにはどうしても感性的なかたちを使って表現しなければなりません。これは一つの矛盾ですが、この矛盾を実現させなければ言語表現は成立しません。したがって言語は、言語本来の表現である普遍的な面での表現のほかに、特殊的な感性的なかたちの創造としての表現をもかねそなえた、二重の表現として成立します。
  「バカ!」(大声)
  「ぼくは……とうとう……やられちゃったんだ……。」(ゆっくり話す)
  「あの男ときたら、K君まで丶丶丶丶だましたんだ。」(部分の強調)
  「浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗人の、種は尽きざる七里ガ浜、その白波の夜働き……。」(リズムを持つ表現)
  「今晩おひま丶丶丶? 遊びに来る丶丶?」(抑揚をつける)
 これらの感性的な面は、言語の意味と無関係ではありませんが、それは言語としての表現ではなく、音としての表現です。けれども詩や歌のリズムが、その言語の持つ意味や言語の対象と直接のつながりを持たないことから、これを単に形式的な創造と考えてはなりません。作者の思想が、一面では本来の言語表現として、一面では感性的な表現として、二重性をもってあらわれたものと理解すべきです。表面では別個であってもその内部では思想的につながっているのだということを正しくとらえることが必要です。[5]『日本語はどういう言語か』P.52、53

ここで言語表現と内容的につながっている非言語表現の例をいくつか挙げてみよう。文学作品の中には言語表現だけでなく非言語表現も活用した作品がある。そのような作品の例として三浦は宮沢賢治の以下の詩を挙げている注3『認識と言語の理論 第二部』P.392

宮沢賢治「春と修羅」第三集1015
宮沢賢治「春と修羅」第三集 作品第1015号[6]宮沢賢治『春と修羅』第三集作品第1015番(引用は『宮沢賢治詩集』(谷川徹三編、岩波文庫、1950年)を底本にした)

作者の創作上の工夫がはっきりわかるようあえて縦書きで引用してみた。一見してわかるように「飛び立つ」という言葉が三行並べられ、それらが一字ずつ字上げされていくかたちで配置されている。この詩では「春の蛾」の飛び立つ様子が一面では言語表現として、もう一面では感性的な面での表現すなわち非言語表現として表わされているといえるだろう。

非言語表現が活用されているのは、詩や歌唱、書といった観賞用の表現に限らない。店舗の看板や企業広告、官公庁の作成する啓発ポスターといった実用的表現でも非言語表現が活用されている。

例えば、火の用心を呼びかけるポスターにおいて「火」という文字の一部を炎のイラストによって絵画的に表現したり、歯と口の健康に関する啓発ポスターで「歯」という字の一部を歯ブラシのイラストで表現するといった例がある。これらの例では「火」や「歯」が一面では言語として、他面では絵画として表現されており、三浦の言う「二重性」がはっきり現れているものといえるだろう。

企業名や商品名を表示する際に用いられるロゴタイプも非言語表現を活用した例の一つといえる。ロゴタイプにおいては企業や商品のイメージを言語表現だけでなく非言語表現によっても表していることが多い。

例えば、水や空と関係のある企業・団体ではロゴタイプの色に青色を採用したり、自然や農業関係の団体の場合は緑色を用いたりする。また、水や木といった具体的な対象ではなく知性や情熱といった抽象的な概念をロゴタイプにおいて表現したいこともある。そのような場合は、例えば知的なイメージを表現するときは青系の色を、情熱や暖かさといったものには赤系の色を使うといった工夫がなされる。

ロゴタイプの場合、言語表現としての創造と非言語表現としての創造は別々の作者によって分担されるのが一般的であり、企業の広報担当者が新商品の商品名とイメージをデザイナーに伝えて商品名のロゴタイプを作成してもらうといったことは広く行われている。注4ロゴタイプとシンボルマークをあわせて図案化することもあり、これは一般的にロゴマークと呼ばれる。以下のサイトでは様々な企業や商品で用いられているロゴタイプ・ロゴマークを集めて紹介しているので、興味のある人は参考にしてほしい。
https://logostock.jp/

フォントは活字印刷において用いられる同一の書体・大きさの文字・記号で構成される活字の集まりを指すが、表現の内容や用途に応じて異なるフォントを使い分けることがある。これも言語表現と結びついた非言語表現の一つである。

例えば、活字印刷では見出し用、本文用、ルビ用でフォントを分けている場合があり、見出し用では読む人に与えるインパクトを、本文用では読みやすさを重視した字形になっており、ルビ用では小さいサイズでも見やすいように配慮がされている。

近年ではWebサイトやバナー広告においてデジタルフォントが盛んに利用されている。デジタルフォントにはデザイン会社やフリーランスのデザイナーが作成した有料フォントのほかに無料で利用できるフォントも存在する。

例えば、無料で利用できるフォントサービスの一つ、Google社提供の「Google Fonts注5https://fonts.google.com/
以下の例ではGoogle Fontsに登録されているフォントを利用した。
」からフォントの例をいくつか紹介しよう。以下例文に異なるフォントをそれぞれ適用してみた。例文は同じでもフォントが異なると見た目の印象も変わると思われるので見比べてみてほしい。

フォント1:Yusei Magic[7]ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Yusei+Magic

フォント2:レゲエ One[8]ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Reggae+One

フォント3:Yomogi[9]ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Yomogi

フォント4:トレイン One[10]ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Train+One

第9回に続く

脚注

  • 注1
    19世紀オランダの画家(1853-1890)
  • 注2
    言語表現と直接関係を持つ非言語表現の例として「抑揚 intonation」を挙げることができる。例えば「食べる?」のように文末を上昇させて発音するのが抑揚である。一方、これと一見似ている「アクセント accent」は言語表現のありかたであり、正しく区別しなければならない。
    「音声言語でアクセント丶丶丶丶丶 accent と呼ばれるものは、たとえば「柿」と「牡蠣」、「橋」と「箸」の音調のちがいであって、この音節を高い調子で発音するかは発音についての規範の一部に入っている。それゆえアクセントは言語表現のありかたであり、文法上の問題としてとりあげなければならない。これに対して抑揚丶丶 intonation と呼ばれるものは、たとえば同じように「食べる」と言語表現を行なっても、文末を上昇させると問いかけの意味になったり、強く発音すると命令や強制の意味になったりして、話し手の主観をいろいろ示すことができる。文字で記録すると、この部分は符号を使って、「食べる?」「食べる!」などと記している。この抑揚での表現は、どの言語表現に伴った場合にも大体において共通した意味を持ち、そこに話し手の主観が押し出されているという点で、主体的表現の一種である。」(『日本語の文法』P.22、強調は原文)
  • 注3
    『認識と言語の理論 第二部』P.392
  • 注4
    ロゴタイプとシンボルマークをあわせて図案化することもあり、これは一般的にロゴマークと呼ばれる。以下のサイトでは様々な企業や商品で用いられているロゴタイプ・ロゴマークを集めて紹介しているので、興味のある人は参考にしてほしい。
    https://logostock.jp/
  • 注5
    https://fonts.google.com/
    以下の例ではGoogle Fontsに登録されているフォントを利用した。

References

References
1 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.47、48、強調は原文ママ(以下同)
2 前掲書P.81
3 三浦つとむ『日本語の文法』(勁草書房、1975年)P.21、22
4 三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部』(勁草書房、1967年)、P.390、391
5 『日本語はどういう言語か』P.52、53
6 宮沢賢治『春と修羅』第三集作品第1015番(引用は『宮沢賢治詩集』(谷川徹三編、岩波文庫、1950年)を底本にした)
7 ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Yusei+Magic
8 ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Reggae+One
9 ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Yomogi
10 ダウンロード元 https://fonts.google.com/specimen/Train+One