言語表現の過程的構造について(1)

前回の記事を書いてからだいぶ間が空いてしまった。

忙しくて記事を書くための時間が取れなかったというのもあるが、それよりも大きな理由は、次に扱う予定だったテーマが予想以上に大きくて、文章がなかなかまとまらなかったからだ。 1

ここで書きあぐんでしまうのも時間がもったいないので、次に扱う予定だった「技術の本質」についてはひとまずおいておき、後日あらためて続きを書いてみたいと思う。

今回はもう少し書きやすいテーマについて書くことにしたい。

文学研究は言語学の成果の上に立つ

個別科学の体系的な建設を目指す者は、その科学の基礎となる一般理論の必要性を認識し、その獲得に努力を惜しまない。一般理論は個別科学の研究の導きの糸となるからだ。言語学者三浦つとむ(1911-1989)は、個別科学としての言語学の建設に表現・認識・規範の各理論が必要となることをはっきり認識していた。

われわれが自分の思想を他人に伝えようとする場合に、精神から精神へ直接結びつくことはできない。精神それ自体が頭の中からぬけ出して、空中を飛行し、他の人間の頭に入り込むなどということはありえない。それゆえ、人間相互の精神的な交通にはさまざまな表現丶丶が必要になる。言語は表現の一種であるから、言語学を建設するには表現の一般論が必要であり、言語に直接表現されているのは概念とよばれる認識の一種であるから、言語学を建設するには認識の一般論が必要であり、言語は社会的な約束である規範に規定されて語法なり文法なりが成立しているのであるから、言語学を建設するには規範の一般論が必要であるというように、仕事の幅がひろがっていく。すでにそれらの一般論がつくられていても、吟味せずに、うのみにするわけにはいかない。科学者は具体的な対象ととりくんで実証的な個別科学を建設するのであるから、このとりくみの中で一般論の欠陥を反省し是正することができるけれども、哲学者は思弁的な解釈をするだけであるから、それができない。[1]三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房、1977年)所収「市川浩の「魔術的」身体論」P.285、強調は原文ママ

言語学の建設に表現、認識、規範の一般理論が必要というのは、建設学や電子工学などの科学分野において数学と物理学の基礎理論が必要となるのと同じである。それならば、文学の研究にもこれらの一般理論が必要となることは言うまでもない。なぜなら、文学は言語の芸術である以上、文学研究は言語研究の成果の上に立たなければならず、言語学に必要な理論は当然文学研究にも不可欠となるからだ。

文学研究が言語研究の成果の上に立つということは、文学研究の水準は良くも悪くも言語学の理論の水準に影響されるということでもある。三浦の言語理論を継承した一人である、フランス文学研究者の鈴木覺は、次のように述べている。

 最近の文学研究は、言語学の成果を採り入れて行われている。そのこと自体は歓迎すべきことである。文学は言語であり言語学研究の成果を拠り所に文学を研究することに、これまでとは違った理論の展開が期待される。しかし、現代言語学を無批判に鵜呑みしてこれを採り入れれば、文学研究もまた現代言語学の轍を踏むことになろう。文学論が間違った言語観によって偏向せざるを得ないからである。
 今日の言語学は、言語を表現そのものとして捉えずに、表現の道具として捉えている。喩えとしてならともかく、これを言語の本質的定義として言語学に持ち込んだがために、今日の言語学は根本から間違っており、これを無批判に持ち込んだ文学論も必然的に歪められざるを得ない。文学とは何かの本質論が、知らず知らずのうちに歪められてくるのだ。[2]横須賀壽子編『胸中にあり火の柱—三浦つとむの遺したもの—』(明石書店、2002年)所収「時枝誠記・三浦つとむの言語過程説に学ぶ」P.32

鈴木氏が批判している「現代言語学」とはどういうものか?端的にいうと、それは言語の形式のみにとらわれてその表現過程を無視するという形式主義的な言語学である。

 現代言語学は、表現形式のみに目が奪われ、表現過程を無視している。There is a pen on the desk.なる文を示して、これは正しい文ですかと尋ねると、大抵の立派な言語学者は正しい文だと返事する。変形文法でも表現過程にはお構いなしに正しい文として扱う。見掛けでは、いわゆる<文法的>には正しい文であろう。
 どんなに短い文と雖もそれを発した表現主体が存在する。そして表現主体の背後には、対象→認識→表現という過程的構造が存在する。もし右の文が表現対象が本当にペンであったなら、正しい文である。見間違って、ただの棒切れを対象として発せられた文ならば、客体の認識における間違いに基づくもので、形式的に見掛けは幾ら正しく見えても正しくない文である。ペンであることを正しく認識しているが、消しゴムを英語ではa penではなくa rubberと言わなければならないという言語規範を知らずに、言語規範を間違えて右の文を発したのであれば、いかに見掛けは正しかろうとも言語規範の認識過程に間違いがあり、これは正しい文ではない。
 簡単な文でも、太郎のThere is a pen on the desk.と次郎のThere is a pen on the desk.では、ふたりとも見掛けの上で同じことを言っているようでもその表現過程は様々なのである。これでも分らない言語学者には、同じ「つとむ」と言う形式でも、背後の過程によって、三浦つとむのこともあれば、山口さんちのつとむ君のこともあるといったら分るだろうか。[3]前掲書P.33

以上は今から約20年も前に書かれた文章だが、この鈴木氏の痛烈な批判は現在でも決して色あせていない。というのも、現代の文学研究者も言語の表現形式だけを見てその表現過程を無視するという誤りをウカウカと犯してそれに気づいていないからだ。その例を1つ取り上げてみよう。

『詩のトリセツ』における「イメージ」の定義

最近私は『詩のトリセツ』(小林真大著、五月書房、2021年)という文学入門書をAmazon Kindleで読んだ。

この本は、著者が「はじめに」において「詩とは決して直観でしか理解できないような、謎めいた存在ではありません。むしろ、正しい姿勢とコツをつかむことができれば、詩は誰にでも分析できる作品なのです。この本は、私たちが詩を理解する方法を学ぶために書かれました。」[4]小林真大『詩のトリセツ』(五月書房、2021年)「はじめに」、Kindle版から引用(以下Kindleの位置No.で引用箇所を示す)、位置No.34と書いているとおり、詩の初心者に向けた詩を理解するための入門書である。

たしかに、詩の初心者にも読みやすいように平易な文章と多くの詩作品の例を用いており、この点は高く評価できると思う。

しかし、彼が詩の批評理論の基礎として用いている言語学は、まさに鈴木氏が批判していた形式主義的な言語学であった。

『詩のトリセツ』の第3章で、著者の小林氏は「詩のイメージ」について解説をしている。彼のいう「イメージ」とはどういうものだろうか?小林氏は第3章『詩のイメージ』の冒頭で次のように言う。

例えば、
   ドラえもんはどら焼きを食べている。
 という文を読んだとき、私たちの心には「ドラえもん」の姿や、おいしそうな「どら焼き」の映像が浮かんでくることでしょう。このように、言葉によって心のなかに浮かんでくるさまざまなモノの姿を「イメージ」と呼びます。[5]前掲書「第3章 詩のイメージ」、位置No.1,127、強調は原文ママ

短い文章だが、ここに小林氏の言語観の特徴がはっきりと表れている。

実はこの「イメージ」の定義は、小林氏が第2章「詩のリズム」において定義している「記号内容」とほとんど同じである。彼は「言葉とは「記号表現」と「記号内容」が合わさったものであると言って良いでしょう」と言い、「記号表現」と「記号内容」を次のように説明している。

言葉は大きく二つのレベルに分けることができます。例えば、「お母さん」という言葉について考えてみましょう。「お母さん」という言葉を聞いて、私たちが思い浮かべるのは、やさしい(もしくはこわい)母親のイメージです。つまり、「お母さん」という言葉は、私たちに母親の姿を思い起こさせる機能を持っていると言えるでしょう。このように、言葉を見たり聞いたりすることで、私たちの心の中に生れる様々なイメージは、言葉の「記号内容」と呼ばれています。
 一方、「お母さん」という言葉には、母親のイメージ以外にも、「OKAASAN」という音や「お・か・あ・さ・ん」という文字も含まれていることが分かります。そもそも、こうした音声や文字がなければ、私たちは母親の姿をイメージすることができません。このように、イメージを生みだすために必要な言葉の音や文字は「記号表現」と呼ばれています。[6]前掲書「第2章 詩のリズム」、位置No.321、強調は原文ママ

これらはいずれもソシュール言語学 2の受け売りと言ってよい。 3この後小林氏はソシュール言語学に対してほとんど批判することなく詩の批評理論を展開していることから、彼はソシュール言語学をその欠点とともに鵜呑みにしてしまったように思われる。

ソシュール言語学の欠点については次回述べるとして、ここでは小林氏の「イメージ」論の問題点について見てみよう。この「イメージ」論の主な誤りは2つある。

1、言葉の受け手だけを見て言葉の送り手が無視されている

まず、彼が「イメージ」を「言葉によって心のなかに浮かんでくるさまざまなモノの姿」と定義するとき、彼は言葉を受け取る側の視点から言葉の「イメージ」について語っている。裏を返せば、言葉を送る側の人(鈴木氏のいう「表現主体」)については全く無視されている。これが第1の誤りである。

なるほど、たしかに言葉の受け手側から見れば、言葉を聞いたり読んだりしたとき受け手の心の中に「モノの姿」がひとりでに浮んでくるように見える。だが、この言葉の背後にはこれを言ったり書いたりした誰かがいるということを忘れてはならない。

言葉の送り手が自身の認識の対象を言葉として表現するまでには、対象→認識→表現という過程が存在する。一方、言葉の受け手はこの過程を逆にたどって送り手の認識および認識の対象を捉えるのである。

つまり、言葉の送り手が認識対象を言葉として表現してから、それを言葉の受け手が受け取って表現の対象を認識するまでの間には、対象→認識→表現→認識→対象という過程が存在するのだが、小林氏はこの過程の前半(対象→認識→表現)を切り捨ててしまって後半の部分(表現→認識→対象)しか見ていない。ここから、表現から直接に「イメージ」が生み出されるかのように考えてしまったのが彼の誤りである。

彼が「イメージ」と呼んでいるものは、実は言葉の受け手が表現を媒介にして捉えた送り手の認識対象なのである。彼の言語観では、言葉の背後にある表現過程(対象→認識→表現)がいわばブラックボックス化され、知ることのできないものになっているといえよう。

2、表現主体が捉えた対象と一般概念としての「どら焼き」とを区別していない

第2の誤りは、表現主体の捉えた具体的な対象としての「どら焼き」と、言語の形式に結びついている一般的な概念としての「どら焼き」を混同している点である。

こういうと難しく聞こえるかもしれないが、実は先ほど鈴木氏が”There is a pen on the desk.”を例にわかりやすく説明していた話に通じる問題である。

ただの棒切れをペンと見間違えて”a pen”と表現したら、これは認識の誤りに基づいた表現である。この「見間違い」の例から、表現主体の捉えた「ペン」と”a pen”が指している「ペン」は同じものとは限らないのではないかと気づくのはそれほど難しいことではない。

同じくこの問題について考えるヒントは「言い間違い」の中にもある。表現主体は「消しゴム」を正しく認識しているもののこれを英語で”a rubber”と言わずに”a pen”と言ったなら、これは「言い間違い」である。この「言い間違い」という現象を正しく反省することができれば、表現主体の捉えた対象と”a pen”が指しているものとは互いに区別しなければならないことに気づくはずだ。 4

小林氏は「おいしそうな「どら焼き」の映像」のことを「イメージ」と呼んでいたが、これが「どら焼き」という形式に結びついている概念を指しているのか、あるいは表現主体が捉えた対象を指しているのかについてはっきりと述べていない。

極端な例だが、ドラえもんが食べていたのは実はたい焼きだったが、表現主体がこれをどら焼きと見間違えることだってありうる。あるいは、海外から来た留学生で日本語にまだ慣れていない人が、たい焼きを見て「どら焼き」と言い間違ってしまうこともある。こういった場合「ドラえもんはどら焼きを食べている。」は(文法的には正しくても)誤った文になってしまう。

このとき、表現主体が捉えた対象(たい焼き)と言葉の受け手がとらえた「イメージ」(どら焼き)との間に食い違いが起こるわけだが、小林氏の「イメージ」の定義ではどうして食い違いが起こるのかを理論的に説明することができない。 5

第2回に続く

2022/4/24
一部の文章をわかりやすい表現に修正

Notes:

  1. 以下、言い訳。
    いままで「「すべてのアメリカ人のための科学」に対する批判」を書いてきて、これまで「科学の本質」と「数学の本質」について書いたので、次は「技術の本質」について取り組むつもりだった。しかし「技術とはなにか」という大きなテーマにぶつかって思うように筆が進まなかった。やはり「技術の本質」という大きなテーマを扱うにはしっかり時間を取って下調べをする必要があり、そうしないと「すべてのアメリカ人のための科学」を批判的に読むことも文章を書くこともできるものではなかった。(その点では「科学の本質」と「数学の本質」もあまり変わらないが。)
  2. 20世紀初頭、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)によって提出された言語理論。彼の主著『一般言語学講義』はヨーロッパの言語学者だけでなく日本の言語研究者にも大きな影響を与えた。
  3. 「記号内容」も「記号表現」もソシュール言語学の用語である。ソシュールは「言語(ラング)」を「概念」と「聴覚映像」の結合体であり、「言語」を構成する一つ一つの記号を「シーニュ」と定義している。しかし、彼は『一般言語学講義』において途中から「概念」と「聴覚映像」の代わりに「記号内容(シニフィアン)」「記号表現(シニフィエ)」という述語を使用している。このように述語を変更した理由は、シーニュは「概念」と「聴覚映像」の結合したものであるが、シーニュはこれまでの慣習から「聴覚映像」だけを意味するようにとらえられる可能性があり、シーニュと「聴覚映像」の区別に混乱をきたすことが予想されるため、とソシュールは説明している(『一般言語学講義』第1部第1章第1節)よって、「概念」と「記号内容」、「聴覚映像」と「記号表現」はそれぞれ同じ概念を指しているとみてよいだろう。
  4. 小林氏がソシュール言語学を鵜呑みにしてしまったことの悪影響がここに現れている。
    ソシュール言語学では、表現主体の捉えた表現対象と「言語(ラング)」の「概念」とがどのような関係にあるのかを説明しなかった。この点について国語学者の時枝誠記(1900-1967)は次のように指摘している。

    概念を内容的に、そして音声と結合したものとして、要素的に考えるのは、言語構成観(ソシュール言語学の言語観のこと、引用者注)の立場であるが、この見方に従えば、言語音声の対者は、概念ばかりでなく、表象も同様であり、又言語によって表される事物そのものも同様に、音声の対者と考えなくてはならない。然るに、ソシュールは、「言語ラング」の内容を専ら心的なものに限定して考えたのであるが、若しこの様に、「言語ラング」の内容即ち概念と、我々が表現しようとする素材的な事物とを対立させて考えるならば、この両者が如何なる契機によって結合すべきかを明かにしなければならないのであるが、ソシュール言語学は、この点について明かな説明を下してはいない。しかも我々の具体的な経験的言語は、専らこの「言語ラング」と、個別的な表現素材との関係の上に成立していると見なければならないのである。(『国語学原論』(上)(岩波文庫、2007年)P.119,120)

    この時枝の指摘は正しいのだが、彼はここから「言語(ラング)」自体を否定するという方向に進んでしまった。後に三浦つとむはソシュールの「言語(ラング)」説をうまく取り入れた上で時枝の誤りを訂正することになる。

  5. 小林氏は自身の形式主義的な言語観の欠点に気づかないまま、その上に批評理論を組み立ててしまったように思われる。
    彼の言語観は、言葉が(受け手の)「イメージ」を喚起させるという、表現主体を無視した形式主義的なものである。この考え方からすると、言葉が変れば喚起される「イメージ」もまた変る、ということになる。ここから、表現主体が他人に非日常的な「イメージ」を伝えたいと思った場合は非日常的な言葉を使わないといけないという考え方が出てきても不思議ではない。むしろ、論理的な帰結としては当然そうならざるを得ない。
    こうして彼は次のように主張することとなった。

    私たちは習慣的な語の結びつきを使っているかぎり、日常的な世界から脱出することはできません。深い感動や真実を表現するためには、こうした使い慣れた結びつきのパターンを破壊し、新しい結びつきを生みだす必要があるのです。(「第3章 詩のイメージ」位置No.1194)

    「異常な事態」であることを強調するためには、それにふさわしい「異常な言葉」が登場しなければなりません。(「第4章 詩の構造」位置No.1960)

    この考えを推し進めていくと、文芸作品とは非日常的なレトリックの集合体ということになり、作品の解釈とはこのレトリックを読み解くこと、ということになるだろう。

References

References
1 三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房、1977年)所収「市川浩の「魔術的」身体論」P.285、強調は原文ママ
2 横須賀壽子編『胸中にあり火の柱—三浦つとむの遺したもの—』(明石書店、2002年)所収「時枝誠記・三浦つとむの言語過程説に学ぶ」P.32
3 前掲書P.33
4 小林真大『詩のトリセツ』(五月書房、2021年)「はじめに」、Kindle版から引用(以下Kindleの位置No.で引用箇所を示す)、位置No.34
5 前掲書「第3章 詩のイメージ」、位置No.1,127、強調は原文ママ
6 前掲書「第2章 詩のリズム」、位置No.321、強調は原文ママ