言語における客体的表現と主体的表現(3)

前回は言語の重要な特徴の一つである「客体的表現と主体的表現が分離していること」について解説した。これは絵画や写真など言語以外の表現には見られないもので、言語独特の特徴といってもよいだろう。

前回は三浦つとむの解説を紹介したが、実は言語が客体的表現と主体的表現の二種類に大別できることを主張したのは三浦が初めてではない。

言語における客体的表現と主体的表現との区別が言語研究、特に語の分類法において重要な位置を占める問題であることをはじめて指摘したのは、言語過程説の提唱者である時枝誠記である。

時枝は江戸時代の国学者鈴木朖(1764-1837)の著書に見られる学説から直接影響を受け、語は「概念過程を含む形式」と「概念過程を含まぬ形式」という二種類に大別できることを主張した。前者は「思想内容中の客体界を専ら表現するもの」で時枝はこれを「詞」と呼び、後者は「客体界に対する主体的なものを表現するもの」で「辞」と呼んでいる。

鈴木朖の学説と時枝誠記による再評価

時枝が影響を受けたという国学者鈴木朖の学説というのは、朖の著書「言語四種論」に見られる次の説明である。

三種ノ詞ハサス所アリ、テニヲハヽサス所ナシ。三種ハ詞ニシテ、テニヲハヽ聲ナリ。三種ハ物事ヲサシアラハシテ詞トナリ、テニヲハヽ其詞ニツケル心ノ聲也。詞ハ玉ノ如ク、テニヲハヽ緒ノゴトシ。詞ハ器物ノ如ク、テニヲハヽ其ヲ使ヒ動カス手ノ如シ。(中略)詞ハテニヲハナラデハ働カズ、テニヲハヽ詞ナラデハツク所ナシ[1]鈴木朖著、小島俊夫・坪井美樹解説『言語四種論 雅語音聲考・希雅』(勉誠社文庫、1979年)P.17,18

時枝は朖の学説を以下のような表に整理している。

○三種の詞 ○てにをは
 さす所あり  さす所なし
 詞なり  声なり
 物事をさしあらはして詞となり  の詞につける心の声なり
 詞は玉の如く  の如し
 詞は器物の如く  それを使ひ動かす手の如し
 詞はてにをはならでは働かず  詞ならではつく所なし

鈴木朖の「三種の詞」[2]時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫、2009年)P.261,262

朖は「三種の詞」と「てにをは」を区別して、前者を「物事をさし顕」す表現、後者をそれにつける「心の声」と見ていた。時枝はこれを「さす所とは概念化客体化の意であり、心の声とは、観念内容の直接的表現を意味するものと解さなければならない」と指摘している。すなわち、「三種の詞」は客体的な対象を表す表現で、「てにをは」は話し手の主観的な感情や意志の表現ということになる。

このことから、朖は語が客体的な表現と主体的な表現とに区別できるということを、大づかみにとらえていたということができるだろう。

時枝はこの朖の説を「彼の到達した思想が、泰西の言語学説の未だ至り得なかった上に出ている」と高く評価し、これをもとに彼の言語理論をさらに展開することを試みた。その結果生れたのが、語を「詞」と「辞」に二大別するという彼の言語観である。

 構成的言語観に於いては、概念と音声の結合として、その中に全く差異を認めることが出来ない単語も、言語過程観に立つならば、その過程的形式の中に重要な差異を認めることが出来る。即ち、

一 概念過程を含む形式
二 概念過程を含まぬ形式

一は、表現の素材を、一旦客体化し、概念化してこれを音声によって表現するのであって、「山」「川」「犬」「走る」等がこれであり、又主観的な感情の如きものをも客体化し、概念化するならば、「嬉し」「悲し」「喜ぶ」「怒る」等と表すことが出来る。これらの語を私は仮に概念語と名付けるが、古くは詞といわれたものであって、鈴木朗注1(引用者注)名前が「朗」となっているが、他の出版物では「朖」と表記されることが多い(「朖」は「朗」の本字)。岩波文庫版の底本である『国語学原論』(1941年、岩波書店)の該当箇所(P.231)を引用者が確認したところ、「朖」ではなく「朗」の字が使用されていた。『日本語学者列伝』(明治書院企画編集部編、1997年)所収「鈴木朖伝」の「付記」によると、鈴木朖自身は「朖」「朗」のどちらも併用しており、どちらの字も間違いではないという。
「また、名前の文字は「朖」か「朗」かの問題があるが、本人はこれを両用していて、どちらが正しい、どちらが誤りということはいえない。多くの例をみると、漢文や、やや正式の場合は「朖」、和歌や、ややくだけた場合には「朗」を用いる傾向があるが絶対的とはいえない。」(『日本語学者列伝』P.58)
はこれを、「物事をさしあらはしたもの」であると説明した。これらの概念語は、思想内容中の客体界を専ら表現するものである。二は、観念内容の概念化されない、客体化されない直接的な表現である。「否定」「うち消し」等の語は、概念過程を経て表現されたものであるが、「ず」「じ」は直接的表現であって、観念内容をさし表したものではない。同様にして、「推量」「推しはかる」に対して「む」、「疑問」「疑い」に対して「や」「か」等は皆直接的表現の語である。私はこれを観念語と名付けたが、古くは辞と呼ばれ、鈴木朗はこれを心の声であると説明している。それは客体界に対する主体的なものを表現するものである。助詞助動詞感動詞の如きがこれに入る。[3]前掲書P.259,260

この「詞」と「辞」は『国語学原論』の後に書かれた著書(『日本文法 口語篇』『国語学原論 続篇』など)でそれぞれ「客体的表現」「主体的表現」とも呼ばれている。注2「客体的表現、詞が、主体的表現、辞によつて包まれ、また統一されるといふ関係は、種々なものに譬へてこれを説明することが出来る。」時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』(講談社学術文庫、2020年)P.247(旧仮名遣いは原文ママ)注3「言語過程説における文法論は、言語表現の具体的なものは、常に、詞と辞との結合したものであるとした。換言すれば、人間の具体的な思想表現は、客体的表現と、それに志向する主体的表現との結合から成立することを意味する(『日本文法』口語篇第三章文論一総説)。右は、文法論における語論並に文論に関係することであり、特に、国語においては、客体的表現に属する語と、主体的表現に属する語とが、一般的には、截然と詞と辞とに分れ、それが線条的に排列されて、具体的な思想の表現となる。そして、詞と辞とは、次元を事にし、包まれるものと、包むものとの関係にある。」時枝誠記『国語学原論 続篇』(岩波文庫、2008年)P.64

三浦つとむによる評価と批判的修正

このような語の本質的な区別を時枝が提唱したことに対して、三浦は次のような高い評価を与えている。

 時枝が鈴木朖の言語観における〈詞〉と〈辞〉の区別に注目し、これを客体的表現と主体的表現との区別と受けとって西欧の言語学を超えたものと評価し、「この事実は、文法における品詞分類の第一基準として、文法学に重大な変革をもたらすものでなければならない」と主張したことは正当である。(中略)朖の真意を読みとってここに分類の根本的な基準を置いた時枝の功績は高く評価されなければならない。[4]三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房、1972年)P.81,82

一方で、三浦は時枝の詞辞論をそのまま鵜呑みにするのではなく、これを批判的に修正してより発展した理論へ展開することの重要性を強調している。三浦が指摘した詞辞論の主な問題点として3つ挙げることができる。

  1. 「客体的表現」と「主体的表現」は言語以外の表現にも存在すること
  2. 「詞が包まれるものであり、辞が包むものである」に対する批判
  3. すべての語を「客体的表現」と「主体的表現」の二つにはっきりと区別できるわけではなく、両者の側面を持つ語もあること

2と3については次回以降解説することとして、ここでは1つめの問題点だけ確認しておこう。

言語以外の表現における「客体的表現」と「主体的表現」については、すでに第1回で取り上げた。

もちろん、言語と言語以外の表現とでは「客体的表現」および「主体的表現」のありかたは異なっているが、「客体的表現」と「主体的表現」は言語表現にのみ存在するものではなく、絵画や写真、音楽といったあらゆる表現に見出されるものである。その意味で、表現論では「詞」「辞」ではなく「客体的表現」「主体的表現」という名称を用いるのが適切だと三浦は主張している。

 日本語で古くから詞および辞とよばれているものは、私のいう客体的表現および主体的表現に一致するのであって、時枝がこれらの古い述語を活用しようとしたことはあやまりではない。それでは詞および辞とよべば、もはや客体的表現とか主体的表現とかいう術語は不要なのかというと、決してそうではない。なぜなら、言語表現に不可分についてまわる非言語表現においても、これまた主体的表現や客体的表現が存在するのであって、これが言語表現における主体的表現や客体的表現にからみ合ってくるからである。時枝は言語表現の二重性を見おとしたために、これらのからみ合いを正しく区別して説明することができず、混乱が生れることとなった。[5]三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部』(勁草書房、1967年)P.395。強調は原文。

 過程的構造における単語の二大別は、はじめ「概念語」「観念語」と名づけられ、つぎに古くから用いられて来た「詞」「辞」を活用するかたちがとられ、さらに『日本文法・口語篇』(1950年)から『国語学原論・続篇』(1955年)には「客体的表現」「主体的表現」という名称が使われている。表現論としてはこの最後の名称が妥当であるから、私もこれを採用しているが、言語表現はすべて非言語表現を伴うものであって、言語表現としては「詞」「辞」ですますことができても、これらの単語が同時に持っている非言語表現の側面での表現構造をとりあげることになると、どうしても「客体的表現」「主体的表現」として区別する必要に迫られるのである。[6]三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房、1977年)所収「時枝誠記の言語過程説」P.196

以下、筆者も三浦にならって「詞」「辞」ではなく「客体的表現」「主体的表現」という語を使うこととする。

補足

絵画や写真が客体的表現と主体的表現との直接的な統一であるのに対して、言語ではこの二種の表現が分離して別個の語によって行われることを、私は『日本語はどういう言語か』以後指摘して来た。語の分類にとってもっとも根本的なものは、この客体的表現と主体的表現のいづれに属するかという分類であって、これは日本語のみならずあらゆる言語に妥当する[7]『認識と言語の理論 第三部』P.81。強調は原文。

三浦は「語の分類にとってもっとも根本的なものは、この客体的表現と主体的表現のいづれに属するかという分類であって、これは日本語のみならずあらゆる言語に妥当する」と述べている。

しかしこの主張に対しては疑問を感じる人もいるかもしれない。というのも、日本語とその他の言語とでは文法や語彙のありかたが大きく異なっており、たとえ日本語では客体的表現と主体的表現が別の語として明確に分離していても、他の言語、たとえば英語やフランス語でも同様とは限らないからである。健康な懐疑精神を持つ者であれば、日本語で当てはまることが即その他の言語でも当てはまるとは限らないのではないかと疑問に思うのは、少しも不思議なことではない。

そこで、日本語以外の言語における客体的表現と主体的表現のありかたについて、言語過程説ではどのように考えているかについて少し見てみよう。

日本語以外の言語における客体的表現と主体的表現のありかた

古典的な方法ではあるが、言語学者は世界の言語をそのかたちにより「孤立語」「屈折語」「膠着語」の三つのタイプに分類している。これらについては多くの言語学の解説書で説明されており、その内容はよく知られていることと思われるが、ここでは一例として三浦つとむの説明を引用しよう。

 言語学者は、世界の言語をそのかたちから三つに分類しました。その一つは孤立語(isolating language)で、これは単語にかたちの変化がなく、主として単語の位置で文法上の関係をあらわす言語です。その代表的なものは中国語でしょう。第二は屈折語(inflexional language)で、これは単語のかたちを変え(これを屈折とよびます)て文法上の関係をあらわす言語です。英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語など、ヨーロッパの言語の多くがこれに属します。第三は膠着語あるいは粘着語(agglutinative language)で、文法上の関係をあらわす短い語を他の語に密着させて使う言語です。日本語は、この第三の膠着語に属する言語です。[8]三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.88

上でも確認したように、日本語においては基本的に客体的表現の語と主体的表現の語とが分離しており、この二種類の単語を組合せて表現を行うのが通例である。一方で、英語やフランス語といったヨーロッパの言語ではこの二種類の表現が別の語として明確に分離していないことが多い、と三浦や時枝は主張する。

日本語では、客体的表現の語と主体的表現の語とがそれぞれ別の単語になっていて、言語表現のときはこの両者を組合せ、密着させて使っています。これに対してヨーロッパの言語では、客体的表現の語に主体的表現の部分が語尾変化のかたちで癒着していて、別の単語として分離していないものが多く、見かけが一語でしかないものに客体的表現の部分と主体的表現の部分とを区別していくなどということは、それこそ異端邪説にされかねません。[9]前掲書P.79,80

 このやうな語の類別は、国語に於いては、既に古く鎌倉時代から行はれた方法で、第一の形式をとつた語を(シ或はコトバ)といひ、第二の形式をとつた語を(ジ、或はテニハ、テニヲハ)といつて居つた。(中略)
 語に次元を異にした詞と辞の区別の存在することは、日本語特有の現象ではなく、凡そ言語といはれるものには、通有の事実と考へられるのであるが、日本語に於いて、この区別が、既に古く西紀第十三世紀に学者の注目するところとなつてゐたといふことは、日本語が、このやうな理論を導き出すに都合のよい構造をなしてゐたといふことが主要な原因であつたといへるのである。即ち、ヨーロッパの言語に於いては、詞的表現と辞的表現とが、屢々合体して一語として表現されるのに対して、日本語に於いては、この両者が多くの場合に別々の語として表現されてゐるために他ならないのである。[10]時枝誠記『日本文法 口語篇・文語編』(講談社学術文庫、2020年)P.81〜83。引用文の旧仮名遣いは原文ママ。

三浦の言う「客体的表現の語に主体的表現の部分が語尾変化のかたちで癒着していて、別の単語として分離していない」とは具体的にどういうことか。

英語を例に取ってみると、英語では動詞末尾の語形変化によって現在・過去といった時称を表現することがある。例えば、日本語では「歩いた」のように動詞「歩く」と助動詞「た」との組合せで表現するのに対して、英語では「walked」と語尾変化「ed」を伴った一単語で表現する。さらに動詞「eat」の場合は過去形が「ate」であり、一語の形式の中に客体的表現の部分と主体的表現の部分を区別することさえ難しいこともある。

日本語とそれ以外の言語とでは客体的表現および主体的表現のあらわれかたが異なるとはいえ、どの言語でも客体的表現と主体的表現の二種が存在すると主張している点については、三浦も時枝も同じである。では、実際に日本語以外の言語でもこの二種の表現が見られるかどうか、各言語の文法を研究している研究者の話を聞いてみよう。

フランス文学研究者の鈴木覺氏は、印欧語に代表されるような屈折語の特徴を日本語と比較して次のように述べている。

 日本語の場合は、膠着語としての性格上、客体的表現と主体的表現とがそれぞれ別の語として存在するので、その両者の区別がよく分るのであるが、屈折語とされてゐる印欧語のやうな場合は、客体的表現と主体的表現が一体となつて一つの語として存在することが圧倒的に多いために、形態的に両者を明確に分割することが必ずしも容易ではない。サンスクリット、ギリシア語、ラテン語などの古典語の場合は、客体的表現の部分と主体的表現の部分とに分割することが比較的容易であるが、例へばフランス語や英語のやうな近代語の場合は、変化語尾が消滅したり、両者が累合してしまつて形態的に分割することは不可能なことが多い。しかし、分ち難く累合し融合した語形もまた、語尾変化する他の語からも察せられるやうに、客体的表現と主体的表現とを有してゐるのである。
 ここで、簡単な例を以て示さう。This is a pen.におけるisとThe pen is on the desk.におけるisとは、形態的に全く同じである。しかし、前者のisでは、主語が単数で第三人称であることを表してゐるばかりでなく、対象と話し手との時間的関係が現在であることや話し手の肯定判断などの主体的表現が表されてをり、この文におけるisはこの主体的表現がもろに出た文である。一方、後者のisではこのやうな主体的表現も表されてはゐるが、isの主眼が「ある・存在する」と言ふことを表すことに置かれてゐるので、右のやうな主体的表現が背後に隠れて見えにくくなつてゐる。この例を見れば、分ち難く累合した形態の動詞にも二種類の表現が表されてゐることがよく判るであらう。[11]鈴木覺「関係詞論」(佐良木昌編『言語過程説の探求 第一巻』(明石書店、2004年)所収)P.143,144。引用文の旧仮名遣いは原文ママ。

 時枝誠記は語形変化や機能によらず、対象—認識—表現という過程を手繰っていくことによって、すべての語が、表現対象を概念化して表す客体的表現と、対象に対して表現主体の抱く主観的な感情・意志・推量・判断等を客体化せず、直接に表す主体的表現とに二大別されることを発見した。フランス語のような所謂屈折語では、日本語の助動詞とか助詞のように主体的表現が独立した単語となって現象することが極めて少なく、多くの場合屈折語尾となって現象し、またこの屈折語尾においても主体的表現と客体的表現が融合していることが多いので、日本語のように形式的にも主体的表現と客体的表現とをきっぱりと分離することが出来ないことが多いのであるが、それにも拘らず動詞に関る文法的範疇が客体的と主体的のいずれの表現に属するのかを明かにしておく必要があるのである。[12]鈴木覺「フランス語時称体系試論」(『言語過程説の探求 第一巻』所収)P.198,199

英語研究者の宮下真二(1947-1982)は、1660年にパリで出版された文法学の著書、いわゆるポール・ロワイヤル文法 Grammaire générale et raisonnée(『一般・理性文法』)を取り上げ、この文法書では語の基底にある認識のあり方を「思考の対象」と「思考の形態と様式」という二種類に区別し、それに基づいて語を二つに分類していることを指摘している。

 ポール・ロワイヤル文法は、語の基底にある認識のあり方を検討して認識を基本的な二つの種類に分けた。即ち「思考の対象」と「思考の形態と様式」である。語は「人間が自らの思考を表明するための記号」であるから、原型である思考のあり方に基づいて、「思考の対象を表わす」語と「思考の形態と様式を表わす」語とに分類される。これは画期的な分類である。[13]宮下真二『英語はどう研究されてきたか』(季節社、1980年)P.201

ポール・ロワイヤル文法において「思考の対象を表わす」語と「思考の形態と様式を表わす」語との分類を指摘しているのは、具体的には以下の箇所である(該当箇所を引用者が太字にしている)

 事物に関して我々が下す判断は命題と呼ばれる。例えば、「地球は丸い」 la terre est ronde. と言う場合である。このようにあらゆる命題は必然的に二つの辞項を包蔵する。一方は主部(sujet)と呼ばれ、人が断言する対象であり(例では「地球」la terre これに当たる)、他方は述部(attribut)と呼ばれ、断言する内容である(例中の「丸い」ronde)。さらに、これら二辞項を結ぶ連繋部がある(例中の「……である」est)。
 さて、この2つの辞項は厳密には精神の第一の作用に属することが容易に理解される。これは我々が認識したことがらであり、我々の思考の対象であるからである。また、二辞項の連繋は第二の作用に属することも容易に理解される。それは我々の精神に固有の作用であり、我々の思考の仕方であると言える。
 このようにして、我々の精神の内に生起することの最大の特徴は、そこで我々の思考の対象を考察できることである。つまりそれは我々の思考の形態と様式であり、その主要なものは判断である。しかし、そこにはさらに、結合と分離、これに類似する我々の精神の諸作用、はたまた欲望、命令、疑問などの我々の魂の他の全ての動きを挙げてつけ加えねばならない。
 以上から、人間は自らの精神内で生起することを表わすために記号を必要としているが、また他方、語はごく一般的に次のように区別される必要がある、という結論になる。すなわち、その区別とは、一方は思考の対象を表わし、他方は我々の思考の形態と様式を表わすことである。もっとも、語は思考の形態と様式を単独に表わすことはなく、その対象とともに表わすのがしばしばである。[14]C.ランスロー・A.アルノー著『ポール・ロワイヤル文法』(ポール・リーチ編、南館英孝訳、大修館書店、1972年)P.35,36。強調は引用者。

ポール・ロワイヤル文法では語を「第一の種類の語」すなわち「思考の対象を表わす」語と「第二の種類の語」すなわち「思考の形態と様式を表わす」語の二つに分け、「第一の種類の語は、名詞、冠詞、代名詞、分詞、前置詞そして副詞と呼ばれるものであり、第二の種類の語は、動詞、接続詞そして間投詞である」と述べている。

この語の分類が細部にわたるまで妥当かどうかはひとまず問題外としても、語の基底にある認識のありかたから語を二大別したのは言語過程説と同じ考え方に基づく分類といえよう。宮下はポール・ロワイヤル文法の語の分類に対して以下のような評価を与えている。

 時枝誠記や三浦つとむの言語論を読んだことのある読者は既に気付いているだろうが、ポール・ロワイヤル文法が発見した「思考の対象」の表現と「思考の形態と様式」の表現とは、時枝の「客体的表現」と「主体的表現」のことに他ならないのである。時枝は、それまで無視されていた、江戸時代の国学者鈴木朖の詞とてにをは丶丶丶丶の定義を発見し、それを論理的に展開して、客体的表現と主体的表現として確立したのであった。鈴木朖の場合とは異り、ポール・ロワイヤル文法の語の二大別はいまだ正当な評価を受けていない。時枝の客体的表現と主体的表現の区別についても、国語学者の中にはその意義を理解しえずに無用の区別として斥けようとする者もいることは、ポール・ロワイヤル文法の場合を考え併せると教訓に富む。[15]『英語はどう研究されてきたか』P.206,207。強調は原文。

また、中国語研究者の内田慶市氏は、古代から近代に至るまでの中国語の語法書を概観し、これらの語法書の中に語を大きく分けて二種類に分類する考え方があったことを指摘している。すなわち、言語過程説で言うところの客体的表現に属する語と主体的表現に属する語との二大別である。

一般に孤立語の代表とされる中国語の語法研究においても客体的表現と主体的表現とを区別する考え方があるという指摘は、言語過程説の立場から言語を研究する上で非常に興味深い。

 中国人は、すでに、今から約二千年も前から『墨子』や『荀子』にみられる如く、語には、いわゆる「客体的表現」に属するものと、「主体的表現」に属するものという大きな二つの性質の異なる語が存在することを、経験的に意識しており、前者を「名」、後者を「辞」と称し、漢代以降、訓詁学者は特に、後者に属する語に注釈を施す際に、「辞」或いは「△△之辞」という形を用いていた。「辞」は、又、『説文』注4(引用者注)中国の後漢時代の字書である『説文解字』のこと。紀元100年頃成立といわれる。著者は許慎(生没年未詳)。では、「詞」と称され、「辞」と「詞」とは共用されることになる。ところで、「辞」或いは「詞」とは一体何かということについて、中国人は、普通、「意味のないことば」ととらえていたが、これは、「主体的表現」のことばが、所謂「形」を示さないということに基づくものであった。[16]内田慶市「中国人は、語をどのように分類してきたか」(三浦つとむ編『現代言語学批判』(勁草書房、1981年)所収)P.83

 『文通』注5(引用者注)中国の清朝末期に著された語法書『馬氏文通』(1898年発行)のこと。西洋の語法書にならって中国語の語法を体系的に記述しようと試みた書物で、中国における最初の体系的な語法書とされる。著者は清朝の外交官である馬建忠(1845〜1900)。でいう「字」とは、「語」に相当するが、つまり、『文通』では、語を大きく「実字」「虚字」の二つに分け、その二つによって文が構成されていくことを述べ、又「虚字」とは、「辞気」つまり「語気」や「情態」を表わすもの、乃ち、主体の側に属するものであることを述べており、これは、それまでの中国人の語の二大別という独自の研究成果を完全にとり入れたものであることがわかる。なお、「実字」「虚字」の説明に、「可解」(理解できる)「無解」(解なし)というのは、「意味があるか否か」ということであり、これも、すでにみてきたように、中国の古くからの説明の方法である。[17]前掲書P.86

以上、日本語以外の言語の文法を研究している研究者の説をいくつか紹介した。

語は客体的表現と主体的表現の二種類に大別できるという言語過程説の主張が日本語以外の言語でも妥当であるかどうかは、各言語の文法を綿密に研究することによってはじめて明かになることは言うまでもない。しかし、上に紹介した学説は、日本語以外の言語の研究へも言語過程説を応用できることの可能性を十二分に示していると言ってよいだろう。

第4回に続く

2024/9/16
補足の文章を追加

脚注

  • 注1
    (引用者注)名前が「朗」となっているが、他の出版物では「朖」と表記されることが多い(「朖」は「朗」の本字)。岩波文庫版の底本である『国語学原論』(1941年、岩波書店)の該当箇所(P.231)を引用者が確認したところ、「朖」ではなく「朗」の字が使用されていた。『日本語学者列伝』(明治書院企画編集部編、1997年)所収「鈴木朖伝」の「付記」によると、鈴木朖自身は「朖」「朗」のどちらも併用しており、どちらの字も間違いではないという。
    「また、名前の文字は「朖」か「朗」かの問題があるが、本人はこれを両用していて、どちらが正しい、どちらが誤りということはいえない。多くの例をみると、漢文や、やや正式の場合は「朖」、和歌や、ややくだけた場合には「朗」を用いる傾向があるが絶対的とはいえない。」(『日本語学者列伝』P.58)
  • 注2
    「客体的表現、詞が、主体的表現、辞によつて包まれ、また統一されるといふ関係は、種々なものに譬へてこれを説明することが出来る。」時枝誠記『日本文法 口語篇・文語篇』(講談社学術文庫、2020年)P.247(旧仮名遣いは原文ママ)
  • 注3
    「言語過程説における文法論は、言語表現の具体的なものは、常に、詞と辞との結合したものであるとした。換言すれば、人間の具体的な思想表現は、客体的表現と、それに志向する主体的表現との結合から成立することを意味する(『日本文法』口語篇第三章文論一総説)。右は、文法論における語論並に文論に関係することであり、特に、国語においては、客体的表現に属する語と、主体的表現に属する語とが、一般的には、截然と詞と辞とに分れ、それが線条的に排列されて、具体的な思想の表現となる。そして、詞と辞とは、次元を事にし、包まれるものと、包むものとの関係にある。」時枝誠記『国語学原論 続篇』(岩波文庫、2008年)P.64
  • 注4
    (引用者注)中国の後漢時代の字書である『説文解字』のこと。紀元100年頃成立といわれる。著者は許慎(生没年未詳)。
  • 注5
    (引用者注)中国の清朝末期に著された語法書『馬氏文通』(1898年発行)のこと。西洋の語法書にならって中国語の語法を体系的に記述しようと試みた書物で、中国における最初の体系的な語法書とされる。著者は清朝の外交官である馬建忠(1845〜1900)。

References

References
1 鈴木朖著、小島俊夫・坪井美樹解説『言語四種論 雅語音聲考・希雅』(勉誠社文庫、1979年)P.17,18
2 時枝誠記『国語学原論(上)』(岩波文庫、2009年)P.261,262
3 前掲書P.259,260
4 三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房、1972年)P.81,82
5 三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部』(勁草書房、1967年)P.395。強調は原文。
6 三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房、1977年)所収「時枝誠記の言語過程説」P.196
7 『認識と言語の理論 第三部』P.81。強調は原文。
8 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫、1976年)P.88
9 前掲書P.79,80
10 時枝誠記『日本文法 口語篇・文語編』(講談社学術文庫、2020年)P.81〜83。引用文の旧仮名遣いは原文ママ。
11 鈴木覺「関係詞論」(佐良木昌編『言語過程説の探求 第一巻』(明石書店、2004年)所収)P.143,144。引用文の旧仮名遣いは原文ママ。
12 鈴木覺「フランス語時称体系試論」(『言語過程説の探求 第一巻』所収)P.198,199
13 宮下真二『英語はどう研究されてきたか』(季節社、1980年)P.201
14 C.ランスロー・A.アルノー著『ポール・ロワイヤル文法』(ポール・リーチ編、南館英孝訳、大修館書店、1972年)P.35,36。強調は引用者。
15 『英語はどう研究されてきたか』P.206,207。強調は原文。
16 内田慶市「中国人は、語をどのように分類してきたか」(三浦つとむ編『現代言語学批判』(勁草書房、1981年)所収)P.83
17 前掲書P.86