今私は岩波文庫のアリストテレス『形而上学』を読んでいる。
まだすべて読み終わっていないが、読んでいるうちに言語学と関係がありそうな箇所を見つけ、私なりに思うところがあったので、それを書いてみたい。
書いてみると意外と長くなってしまったので、記事を3つに分けた。
なお、「がある」と「である」の違いについてだけ知りたい人はこちら。
アリストテレス『形而上学』第5巻第7章
アリストテレス『形而上学』第5巻 1第7章を読んでいて疑問に思うところがあった。
それは以下の箇所だ。(強調は原文)
ものがオン 2[ある、存在する、または、存在、存在するもの]と言われるのは、(一)付帯性においてか、あるいは(二)それ自体においてかである。
(一)付帯性においてあるというのは、たとえば我々が、(1)「公正なものが教義的である」と言い、あるいは(2)「人間が教義的である」と言い、あるいは(3)「教義的なものが人間である」と言うがごときである﹆ 3(中略)
つぎに、(二)それら自体においてある[または存在する]と言われるのは、まさに述語の諸形態[諸範疇]によってそう言われるものどもである 4﹆なぜなら、ものが云々である[または存在する]というのにも、それらが種々の形態で述語されるだけそれだけ多くの意味があるからである﹆けだし、述語となるものども[諸範疇]のうち、或るものはその主語のなにであるか[実体・本質]を意味し、或るものはそれのどのようにあるか[性質]を、或るものはそれのどれだけあるか[分量]を、(中略)ある[存在する]というのにもこれらと同じだけの意味があるからである。[1]『アリストテレス 形而上学(上)』P.172 – 174
これを初めて読んだとき、私は何を言っているのかさっぱりわからなかった。きっとこれを初めて読む人のほとんどがチンプンカンプンだと思う。
訳者がつけてくれている原注では、もう少しわかりやすく解説している。
先の引用の原注2を見てみよう。
日本語で「Sがある」と言う場合の「ある」(=「がある」の「ある」)は、Sが存在する・実在する・生存している等々の意であるが、このSが「Pである」(たとえば人間である・白くある・五尺ある)と言う場合の「ある」(=「である」の「ある」)は、Sそのものが端的に存在すると言うのとはちがって、このSをなんらか他なるPであると述べ、SをPと連関させるための「ある」である。このように両者は同じ「ある」でも意味・働きがちがっているので、西洋の学会では前者を「存在(エグジステンス)としてのある」と呼び後者を「連辞(コプラ)としてのある」と呼んで区別している。これは日本語ではあまり問題にならない。日本語では、後者の場合、「である」の「ある」をも用いないで、むしろ別の語でたとえば「人間だ」「白い」「二尺です」等々と言うのが普通である。しかし、ギリシャ語(のみならず一般に印欧語)では、どちらの場合を表すにも差別なく共通に、「存在」の意をもつ同じ一つの’einai’(esse, be, être, seinなど)またはその変化形が用いられる。それがために、この「ある」=「存在」、「である」=「がある」をめぐって、現にエレア学派からソクラテス門下の詭弁家たちにいたる怪しい論議もなされたわけである。またこれゆえに、アリストテレスでは、この「である」の意味の「存在」が一般に「述語(範疇)としての存在」と呼ばれて、その存在研究の重要課題ともなったのである。「存在としてのある」と「連辞としてのある」が区別されるに至ったのも実はこのアリストテレスの研究の結果である。(後略)[2]『アリストテレス 形而上学(上)』P.363, 364
つまり、アリストテレスは「ある」を「存在としてのある」(「がある」)と「連辞としてのある」
(である)の2つに区別したわけだ。そして、ここから「存在」という概念には「がある」と「である」の2種類があると主張したのである。
そして、特に「である」には(一)「付帯性」において「ある」場合と(二)「それ自体」において「ある」場合の2つがあるとアリストテレスは言う。それを述べたのが先の引用箇所だ。
疑問に思ったこと
こう言われるともっともらしく聞こえるが、本当にそうだろうか?
確かに「ある」は存在を意味する言葉だ。しかし、「ある」に2つの使い方があるからといって「存在」という概念自体に2つの意味があることにはならないだろう。「ある」という言葉は「存在」以外にも別の意味を持っているだけかもしれない。
もう一つ重要な問題がある。それは、訳者の解説ではどうして日本語では「人間である」も「人間だ」もほぼ同じ意味になるのかを説明できないことだ。
「存在としてのある」と「連辞としてのある」の区別を訳者は「これは日本語ではあまり問題にならない」と言っているが、むしろここに謎が隠れている。
「日本語ではあまり問題にならない」のは、「存在としてのある」と「連辞としてのある」の区別が日本語では容易にできるからだ。それは「がある」と「である」の形で現れている。さらに「〜である」を「〜だ」と入れ替えることもできるから、「存在としてのある」と「連辞としてのある」を対立させて両者の区別を議論することはまず起こらない。
では、「〜である」と「〜だ」がほぼ同じ意味の言葉として入れ替えることができるのはなぜか?
いや、厳密には両者には微妙な違いがあり、普段私たちはこれらを意識的・無意識的に使い分けている。例えば、かしこまった文章を書くときは「〜だ」よりも「〜である」の方を使おうとする。つまり、「〜だ」よりも「〜である」の方がなんとなく重々しい感じがする表現だと私たちは感じている。そのように感じるのには必ず根拠があるはずだ。
「〜である」と「〜だ」の違いをはっきりさせるためには、「〜である」の「ある」がどういう種類の言葉なのかを調べる必要がある。それは「〜がある」の「ある」と同じ言葉なのだろうか?両者の「ある」は同じ形だからまったく同じ言葉だと言ってよいだろうか?
次回は「がある」と「である」の違いおよび「である」と「だ」の違いについて考えてみよう。
Notes:
- 「第5巻」という表記は出隆訳の岩波文庫版に従った。岩波文庫版の凡例によると、『形而上学』全14巻は各巻にギリシャ語のアルファベットΑ(アルファ)からΝ(ニュー)までが割り振られているそうだ。「第5巻」とは、Α巻から数えて5番目の「Δ巻」のこと(Α巻の後ろにα巻があるのでΔ巻が5番目)。 ↩
- 原注1
原語’on’は「ある」または「存在する」という意味の動詞’einai’の中性形の分詞で、ラテン語では’ens’であり、いろいろの意味で「ある」または「存在する」と言われる物事を指す。(後略)
『アリストテレス 形而上学(上)』(出隆訳、岩波文庫、1959年)P.363
↩ - 多くの人にとって見慣れない記号と思われる。これは「シロテン」と呼ばれるもので、句読点の一種。かつては「、」や「。」と同じく区切りの記号として使われていたが、現代ではまったく使われなくなった。原文の表記に合わせるため、このまま引用することとした。 ↩
- 原注2、『アリストテレス 形而上学(上)』P.363, 364 ↩